5月11,12日

この週末は少林寺拳法関連行事のため陸前高田行きを休みました。

現地入りして活動してくださった町田南道院 生田目さんからリポートをいただきましたので掲載させていただきます。

なお、12日は其田さんからリポートをいただけるそうなので届き次第掲載させていただきます。

11日

5/11(土)の活動は高田市街地の側溝泥出し。

其田さんご夫婦、吉成さん(其田さん友人)、生田目、中光(生田目友人)、の5人で今回の作業は、道路脇の側溝の泥出し

5人は活動経験が浅いために、畠山先生のお兄様に段取りと作業場所まで案内いただき作業を開始

作業は少林寺拳法関連の他に、金沢大学ボランティアサークルの学生さん25人くらいと一緒に作業


側溝の泥出し未経験者には、常々疑問に思っておりました「側溝の蓋の外し方」

自宅近所の側溝蓋とは全く違い、かなりの重さと、ふた周辺に砂や砂利が噛んでいるようで、なかなか外れない

蓋の外し方は器具を使ってこんなイメージです

 

イメージ図からすると簡単そうですが(笑)、そうそうビクとも動かない蓋ばかりで悪戦苦闘

天気予報は雨となっており合羽を着込んでの作業だったのですが、蓋外しを始めて早々あまりの重労働にすぐに薄着になりました(苦笑)

今回の作業現場は震災時の津波で蓋が流されてしまったのか、蓋が少ない場所だったと思うのですが、残っている蓋はとてつもなくガッチリとハマっており数か所はあきらめる次第。。。

 

泥出しと言うよりも乾燥した土の掘り返し、ほとんど水分が無く土を掘り出しその中の瓦、ガラス、金属、コンクリ+レンガ、不燃物等を分別

 

みな不慣れな作業でしたが、時間と共に学生さんたちと比べ年齢の高い色々な経験をしている私達が、「こうしたらやり易いんじゃなの!!??」のアドバイスを学生さんも素直に受け入れていただき「一つ勉強になりました!」などと言ってもらい、蓋外しの作業も「僕やってみたいです!」と言う意欲的な学生さん、お互いに良い関係で作業が行えました! 

 

途中、畠山先生のお兄さんも合流いただき効率UP!!

 

作業終了後の側溝の写真です

 

心配されていた雨も作業中ほとんど降られず

 

使わずに置いてあったスコップを作業後どけたら、雨で周りが濡れ、スコップ後が付いておりました(こんな程度の雨でした)

 

この後、作業場の片づけを行いお借りした道具を返しに復興サポートステーションに戻った所、急に大雨になり一同「良かった良かった ^^」

 

怪我もなく5/11の作業は終了

 

金沢大学の学生さん!ご一緒に活動いただいた皆様!ありがとうございました!!

 

其田さんからリポートが届きましたので掲載します。

12日は岩手東山の伊藤先生が参加しています。

 

12日

 先日51112日と陸前高田のボランティアに参加した。初日は生田目レポートに譲るとして、二日目は高田松原再生のための松苗木の根切り、剪定作業に従事した。


現在、元の松原地域は地盤沈下のために直ぐに苗木を植え替えられない状態という。そのため植え替え時期を調整するために、苗木の成長を遅らせる必要があるようだ。その成長を遅らせる作業というのが松の根を切って、剪定という作業である。 これらの作業の主催は「高田松原を守る会」で、指導は会員でもある植木職人が指導に当った。我々が担当したのは根切りと呼ばれる苗木の掘り起こし作業であった。

 松の苗木は既に20cmから4050cmに達しており、その根切りとは周囲を掘ることで自然に根切りが行われる。概ね苗木幹を中心にして半径20cm程度のところにスコップを入れる。

 ところが現場は、もと田んぼだったらしく土は重く耕耘機の沈下を防ぐためにグリ石がところどころにある。普通の畑地での作業はした事があるが、これほど重い土を丁寧に堀起こさなければならない作業は生まれて初めてである。つまり雑に扱えばせっかくの苗木が枯れてしまう。しかもその苗たちは、もと松原の松ぼっくりから得られた貴重なものである。祖末にするわけにはいかない。その意味で、大変難儀な作業であった。

 

 さて、震災も2年を経過するとボランティアの数も減って来ているらしい。少林寺の拳士も減少しているようである。ところが良く考えてみよう。我々金剛禅少林寺は禅派に属する。禅であれば己の修行をすることが本業である。その易筋行の中に拳技があるに過ぎない。多くの拳士が修行は道院でするもの、「行」こそは拳技だとしか捉えていない節がある。そのような考え方はいささか目先が狭い。

 知り合いの剣術家に言わせると年季の入った農業者の振り下ろす鍬には無駄がないという。あれを刀に換えればいとも容易く人を切れるという評価する。同様に年季の入った土方の振り下ろすツルハシも腰が入っていて無駄がないという。昔の人なら当然できた餅つきさえも、今の人は上手に杵を降ろすことができない。即ち腰ができていないと、その方は言われる。大会の演武で賞をいくらとろうが、私の師匠に言わせると、「腰が高い」、「あれでは実戦に使えない」とさえ言う。

 

 私は、前回のボランティアでワカメの「冷やし方」という作業をやった。最初は力が入って腕が疲れたが、そのうち体幹部を使うようにしたら疲れなくなった。私の師匠も知り合いの剣術家にしても武道の基本は「腰」であるという。腰が浮つくようでは、上手くならないとさえ言う。上手くなりたいのなら腰を使えと言う。

 

 我々はしばしば、体を使う農業や土木作業を低く見る傾向がある。ところが武道の根幹には腰の使い方の上手さにある。土木作業や農業や漁業のいずれも、年季の入った人は腰の使い方が上手い。いまなら我々はそうした作業の中から拳技に通じる腰の使い方を学ぶことができる。普通、修行とは自分勝手に一人で行うものである。ところが体幹の使い方を学べて人から感謝もされる、これほどの易筋行はない。もちろん、学ぶかどうかはその人次第である。それを感じるかどうかに尽きる。なので私はボランティアと思っていない。修行に来たと思っている。自分の体をどう動かすか、それにこそ意識を集中している。

 東北三県の様子も、あと数年もすれば写真と文字でしか見ることができなくなる。そんな人の目を通したフィルターを見る意味があるだろうか。いまなら幽かではあるが、3.11のその痕跡を自分の肌で、鼻で、目で、耳で感じる事が出来る。そのチャンスをみすみす失う事は、己の見識のレベルである。今回の出来事はそのうち、教科書にも載るだろう。津波石というのがあるが、結局、人の伝聞は知識としての意味はあったが、効果はなかった。それこそは経験である。経験した者にしかわからないものが知識では補えない。知識は後からでも間に合うが、経験は「今」しかできない。それならば、今しかできない経験をするべきである。東北に来てそれを見るべきである。それは同時代を生きた人間としての経験である。とりわけ、若い人たちは、自らが感じに行くべきである。

 それを損とするか徳を得たとするかはその人の修行次第である。総ては己次第である。同時に、それこそは自己確立の礎となるだろう。

 論語の中にはこういう一節がある。『譬えば山を為る(つくる)が如し、未だ一簣(いっき)を成さずして、止むは吾は止むなり。譬えば地を平らにするが如し、一簣を覆す(くつがえす)と雖も、進むは吾往くなり』 。

 簡単に言うと、「するのもしないのも、あんた次第だよ。誰のせいでもない」ということである。現地を行けばわかるが、道路にガレキは一つもない。逆にガレキの山積みはいたるところにある。一日の変化は解りづらいが、それを地道にやってきた人々がいるという事である。「一簣を覆し」、少しづつ平かにし、ここまで来た。それを見ないのは、同じ時代を生きた者として損である。

 いま、経験できることをしよう。

 

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    itou syouichi (火曜日, 21 5月 2013 17:16)

    合掌。ご奉仕活動ご苦労様でした。それにしても、道具のイメージ図があまりにも、お手軽すぎて呆れました。スカートはありえないし、長靴・安全靴で側溝をまたいでほしいよネ。皆様の安全作業と若い人たちの頑張りに感謝いたします。12日松原を守る会の植え直し作業に金沢大学と其田さんと同行しました。再拝

  • #2

    namatame (水曜日, 22 5月 2013 10:44)

    伊藤先生 イメージ図は仰せのとおりです^^;。どのような作業なのかイメージしてもらうために使わせていただきました!
    本当に危険な作業ですよね。。。
    学生さんの中には、安全靴(つま先のカップ)の存在も知らない方が居たりと・・・
    いつもお疲れ様です m(__)m
    少し期間が空いてしまいそうですが、時間を作ってまたお手伝いに行きたいと考えております。

  • #3

    其田 (水曜日, 22 5月 2013 17:06)

    伊藤先生 12日は金沢大学ではなくて、神奈川大学ですよ。一生懸命やった彼らに拍手。