もう10年以上前のことだったんだな。

懐かしいものがあったので紹介。気仙川での釣りの話。釣りが好きな人にはもしかすると役に立つ事があるかもしれないと思って・・・。

 

父が他界してからあっという間に数年がたってしまった。

一年に何度も顔を合わすことのなくなった親父とお袋に結局親不孝三昧のまま別れを告げることになった自分のふがいなさに今さらながらあきれる。

せめてもの罪滅ぼしとなにやら親父がしたためていた戯言のまとめをやってみることにした。

今でこそワ-プロは一般家庭にもかなり普及してきたが数年前、いやもっと前からだったか知らん、しかも70の声を聞く老人がワ-プロに向かってなにやら必死でしたためるその光景が妙に異次元世界に感じられた。

 小学生のころから作文は苦手だ。毎日日記を書き続ける父の姿がわざとあてつけがましく見えたのもそういえばその頃からずっとだったような気がする。

二十数枚のフロッピーディスクがあった。それぞれを開いてみる。

 めちゃくちゃでどれが前やら後やらさっぱりわからん。

といってもそれは親父のせいばかりではなく、活字嫌いな自分が実は拒否反応を示していたためである部分がかなりある。

 えらそうに俺がまとめてやると兄夫婦やら親戚に吹いてしまったものだから今さら後には引けまい。なんやかんや言い訳をしながら集中できず、収拾がつかない己の無能さをひた隠しに隠しながら何とかまとまったときには母も他界していた。

 典型的な親不孝者の見本を実証してしまった。

 

遅ればせながらここにお披露目となるわけだが、さてどこまで手を加えるべきか・

例によって小難しい表現もでてくる、後先がつながらない、誤字脱字も時として増える。

あの世に渡りそうな直前で現実世界に呼び戻してくれた薬が頭をかなり撹拌していたらしい。そう言えばいつかそんなこと言ってワープロのメーカーだかなんだかに噛み付いたとかともいっていたような気がする。

ともかく身内にだけは公開せねばならない。プロの作家の作品ではない。

誤字があろうとなんだろうとキーボードをたたいた親父自身の姿なのだからプロの推敲などむしろしないほうがいい。一文字一文字が親父そのものの心の表れなのだから。

 

文の流れだけを整えた。

前作「心疾患との出会い」に多くの悪評をわんさと受け、不本意だったらしくわかりやすく書きゃあいいんだろと開き直っていたその姿も実はここにある。

読んでくださる方には甚だ迷惑な話ではあろうけれども死を目前に感じ取った親父のありのままの動揺やら葛藤やらも含め、必死に生の何たるかを表現しようとした親父の声を感じ取っていただくためには出来るだけ手を加えないほうがいいのではと思い、あえて誤字脱字も直さないことにした。

そんな意味も踏まえてお付き合いをお願いしたい。

2001年2月

 

次男坊 誠

第1章小波に戯れて

 

 古家から六十米の序の口を出ると、市道を巡りそこから細い二車線の国道を越えれば、小川の流れに出合うのであった。

 流れが拡げた河原の中ほどには、渇水どきの流れが水音もひそかに、幾千万年代から続き流れている気仙川がある。 両岸の広場には川葦が這い、茅や丈の高い猫柳に蓬が競って繁り、何物も寄せつけない大荒河が里の平野いっぱいに広がっている。

 職に飽きてから、することの日々の当ても無くなった目先に、目前に広がる透き通るような水の流れと、茫洋として四季の彩りのうちに過ぎて行く自由の暇を発見すると、そこに川があった。釣りだ、なに心なく釣りに誘われていった。真冬を避けた後の季節は、残りなく釣りに親しむことに向けられる暮らしとなってしまった。 職がないから云うのもおかしいが、無能無芸の私にはこれがたったひとつの余技の業と云おう。やがて倣いが日常になって仕舞いには趣味ともなり果せるかも知れない。

釣りは趣味として竿、糸、仕掛けを手繰る技もあるが、釣る征服の楽しみもまた格別である。

 役無し世間の諸人は、釣りに分け入り無心に堪能する様を見て云う。

 「いるかいないのか当てもないのに、日がな一日水に入って来るのを待つ、他愛なき日本一の大馬鹿よ。」散々に貶し(けなし)扱き降ろす。

 だが口さがない連中が野次り飛ばす。「大馬鹿を眺めて暇潰しは、その上の世界一」阿呆を論ずるそちらこそ、同じ世間の愛好者というものだろう。 ちょくちょくと、竿、糸、釣針を仕掛けて釣りを嗜むが、とても漁などは覚束無い。いたずらに道具代ばかりが嵩むばかりであった。

 魚は水に棲んでいて水をのみ、水中の珪藻や藍藻をことさらに好んで食餌とする。鮎は水によって棲み、海水から早春に一路河口を経て遡上し、淡水に移って渓谷を更に遡りゆく。晩秋に臨んで産卵をすると一生が終わる。わずか一年の生命を全うする。淡水の名魚と評し清流の香魚と謡われる鮎、亡骸を捧げては佳肴にしてしかも五臓には秘薬の妙あるばかりか、霊験あらたかな夏負けの難病を退散させ、疲労回復の神力を有する人間への天与の賜物である。 たかが雑魚、餓鬼の頃は素っ裸で水浴びのひと休みどき、手ごろの川原石を拾って、いがくり頭の天辺(てっぺん)から、川流れ(かんながれ)石めがけて叩きつければ、鰻鮎など造作もあらばこそ、こともなく獲った昔はものの数にもしなかった。

 陸のものが魚を捕ろうとは魚とりのことであろう。だがそれは的を知らぬ至難の技の駆け引きがとてつもなく要るようであった。 魚には邪魔ものの人ばかりではない、魚一筋に練り鍛え備えられた己が糧と目指す天敵が大勢あるという。天からにらみつける鶚(みさご)凄まじい。夜も昼も目が明るい鵜がいる。優雅なすがたしてるくせに貪欲な鷺、目を見張るばかりの山蝉(やませみ)、それと同類の翡翠(かわせみ)がじっと待ちかまえる。水中では魚類の一匹鰻か狙う。

 更に水中のくらしは大変だった。器物の流れ、洪水の土石、決壊倒木 など数え切れない。魚はこれらの空陸水中三方からの加害を避けて棲息している。ほんに水の中の兵である。

 敢えて魚を捕ることになんの道理(ことわり)があろうものか、糸に針を結わい付けて竿をかざし、仕掛けによって操れば決まったものだと一人合点していた。

 ところが漁師などとは痴(おこ…ばかげている)の沙汰であったのだ。 今更ながら諸賢の曰く「なァ、おめぇのようなそそっかしいのぁ、止めたほうがえーぜ」魚捕りは直射日光に晒されて、下の腰から脚は沢水の急流で懇ろに冷される。「手足の冷えから神経痛が傷む、そればかりではない、心臓や胃腸病と高血圧から風邪引いたら命取りになるぞ。」

 脅かしばかりではないらしい。漁師の同級生である伊藤君は、必ず湯治を毎年二週間、欠かさないのであった。

 魚捕りでなくていいから、せめて魚釣りぐらいで良い。遊びでよろしい。趣味となったらそれはそれでいいだろう。改めて文化の香る気張った趣味娯楽に精進できる柄ではなし、また、その能力も潜在しそうにもない。 清流鳴瀬が其処にあるから魚を追う。望みが將(はた)ときれて、天涯素浪の身が今はのことも為す術(術…方法)がない。手近な生活の営みを始めるとすれば、朝な夕な淡として独り流れる川を問うのは自然であろう。 たどたどしい脚元の頼りなく、行く雲に道を問い、訪れる風に挨拶を交わし、去る鳥は追うでもなく、来たる水に己れを漂わせて、残り少ない余命を何心なく、行末を漂うがままに任せて、語らいない話を万象に聞こうとするのであった。

 近所に竿屋があった。軒下の一階が三つに分けて北側には日用品雑貨が食料品と共に売場を占めている。隣りして竿釣具用品に多数の毛バリテグス類、掛け針から錘などが所狭く重ねたり散らかしたりしてある。南側の切り炉があった。傍らにコンロが置かれてある。コンロには炭火が紫色の炎をあげて、この家の当主「勘龍」が好季節に集めた大名を、験したり、透かしたりしながら、節々の曲りを矯めるのに余念がなかった。

 竿師「勘龍」は気仙川を知る機会にあって関東から移った。

 以前は江戸川の辺に住んでいた。首都でもその名は人口に膾炙(かいしゃ…しれわたること)された名人竿師「東作」に師侍し、兄弟子「東正」(とぅまさ)と並んで学び「勘龍」を号として竿師界に派を競っていた生粋の江戸っ子職人であった。 江戸弁特有の巻舌と歯に衣着せぬ口っ振りは、忽ち地方にもその名が知れわたり、彼の神技と持て囃された「ドブ釣り」とあわせて、猫も杓子も釣りブームに乗って湧きたったものであった。

 私はおそるおそる「勘龍」の店を尋ねた。

 竿一本にがら掛けの釣り具一式を求めた。「…こんなところかな、まず、やってみることだ」彼は私の注文を黙って包んでよこした。 大名の若竹三本継ぎ、長さ三間半であり、テグスは一号一巻五十米、錘は丸玉五匁何個かを頂いた。がら掛け釣りは三本巻き八号を一袋用意した。

 三日市沖の長瀞を目指して真っ直らに駆けつける。

神成橋から橋脚保護する堰堤が施工されていて、下流は洪水で遥か川下の砂利採取穴になだれ込んで段差を造ってしまった。此処を境にして七.八百米も続く中瀬の腰きりの深さから胸丈の大瀞(とろ)が細長い大瀞となって静まりかえっている。

雑魚釣が通り道を西側の二百米程下り、足場の好い位置を占める。

 五匁玉で向こうへ放り込む。向こう岸からこちら側へ、一回り体を中心に周しながら弾みをつけては薙ぎ払う。土手際の法面が雑草を蔓延らせている。薮の枝にひっかかる。底石を挾んで引きちぎる。 仕掛けては切られるまた作り替える。今度は穂先の蛇口から壊れてしまう。小半刻営々と投げる、ひっかかる、仕掛ける。 一日中同じ動作と作業の繰返しで魚釣りは了りを告げる。

 そして竿を残したほかは、何も残らず乾いた魚籠は持ってきたそのままで荷台に積み帰ってしまった。この日の出で立ちは大長ゴム靴を穿ち、夏物の半袖に野球帽を被り、午後の半日を夢中で過ごしたが、流れの半身はよくよく冷えるし、日射に照りつけられた腕は赤く焼けてしまった。

 癪に触ったのが向い側の三人であった。 奴等は確かに銀鱗を閃かせて魚篭に納めている。 私には全く手応えすらなく、いたずらに疲労だけが濃く残るだけであった。

 「一竿に託して風流に親しむ」清冽悠久の渚に立って魚を追えば悉く閑に去来し刻の過ぎるのも知らない。これはまた釣りに接しなくて外に喩えられることのない得がたい慰労の好機であろう。 今は釣の本分や漁師の真髄を詮索するの暇もなく、また高邁な思想の追及、公望の哲学を極める必要ともしない。 今は季魚の一尾を捕らえて、ひたすら捕獲の優越感に堪能してみたいだけである。でき得べくんばさらに、捕った季魚の味覚を験そうとする望みも果たしたいと思うのも事実である。

幾日も獲物は皆無であった。私は度々釣具店を尋ねては、テグス仕掛け用具を補充した。仕掛けの工夫をする。糸の太さ.掛け針の大きさ、錘の重量と、それらの幾つかの変化ある造り方を考える。

店の内儀さんも手伝ってくれる、道糸の二号は太すぎる、錘下を一号が好い、肩に掛ける道具箱を贖う。楕円形のブリキ罐に網を縫い合わせた魚篭の用意も内儀さんの教えで体裁も調ってきた。

 月遅れの御盆はもうすぐだ。盆休みで里帰りした俄か漁師がワンサと増えた。夏休みの学生か生徒か知らないが遊泳禁止の違背から無鑑札

の不良連中が川を荒らす。お陰で追いたてられるような忙しさに落ち着いていられない。朝飯の時間も惜しい。そそくさと味噌汁で流し込んで

家の川下の三日市瀞に向かう。今日で何日目だろうか、如何しても一匹を釣りあげたい。出で立ちは平ズボンに半袖シャツ、庇がながい運動帽被って、ゴム大長をがぶがぶに履く。玉網(たも)を腰に撲ち込んで、波紋をそっと殺して魚の警戒に備える。

 金成橋の下流には、早くも友釣りの先客が羨ましい先端のフアッションに身を固めて、やたらに長い竿を大空に立てて、既に川のあらかたを占拠していた。私は西側の岸辺に沿うて遥か川下を捜した。

 がら掛けの動作は単純である。けれども流れに対して直角に向こう側から対岸に掛け針を引っ張るにあるのだが、角度がある、深さがある、速度がある。この要素を変化させれば無限に近い掛かる機会が生まれてくる。そして水中の見えないものの判断が技を決することになる。

 造作もない仕業の繰返しが、意図に反してやたらに石にひっかけたり、仕掛けを食われたりする。錘を四号に少し軽くした。底石に撲つかる響きも間遠くなったが、体の円周は一際狭くなって、背中を掛けたり、帽子を持って行ったりする。重さが周率を意外に小さくした。

 幾足かを跨いでは、川下に居を移しながら、ガラ掛けの一刷毎に希望の完遂を祈りつづける。錘を一匁軽くしたら肩の疲れが著しく楽になる。今日も収穫はない。徒に装具が重なり、やけに釣具ばかりが増えてゆくし、それに反して減るものは、日夜用意した仕掛けが忽ち川底に失われるだけであった。今日も、来る日も漁がなくて無駄骨だけを徒に折って行くばかりであった。

 気仙川漁業協同組合が決めている鮎の解禁日は七月一日と決めていた。 私が入漁券を入手したのは何時からだったろうか、忘れた。

 

 戦後十年が疾っくに過ぎていた。食料が充ちて衣料が調い、やがて経済が復興の途に就いた。漸く人々が住宅建設に向かってきてからは、生活の安定が確実に国土にみなぎり、経済復興から一躍工業生産の設備強化へと体力を増強し生産拡大へと進展する。次いで鉄鋼造船電気重工業の生産輸出の貿易が世界へと浮上してきた。

 だが世の変遷もまた激しかった。飽食の台所からは既に農業の重要性は聞こえず、農業の経済は再び窮境に追われ、主食生産農家すら土地改良、生産資材などの暴騰で、家計が難儀していたのを誰が知っていたか。 工業は忽ちのうちに農業食料の全盛時代を瞬く間に遠ざけてしまった。戦後の復興は確かに驚異的の劇しさで成長した。土根性に培われた農家の勤勉意欲によって、緊急不足物資だった食料を増産により、潤沢な供給を果たしてきた貢献はまた重要であった筈である。

 だが必死に努力を重ねてきた成果の翳りは、昭和二十八年頃から既に第一次産業が不安を募らせてきている。それは極めて緩やかに生活に迫っていると認識していたものだった。

 私は農業の工夫、農家生活の実践にうつつを抜かしていた。そして連日連夜の研修、生活改善の講習で駆けめぐっていた。旅費は親父の山林から間伐の大義名分で稼いでいた。どうしても足りない家計費までが、親の山から次第に木材となって運びだされていった。

 「身代の樹を伐って、何が模範経営だ」表彰状を叩き割られた。隠すまでもなくインフレは宝の山の蓄積を、忽ちのうちに裸に剥いてしまうところまで追いつめてきていた。一家五人の生活は最早間伐ぐらいで糊塗できる事態ではない浮沈の瀬戸際に置かれたのであった。

 私は独り旅に出た。必至の策である。農業脱出転業を決意して関東に土地を探しにでた。変転三年乾坤一擲(けんこんいってき…うんめいをかけて)横浜市に土地を求めた。貧乏人の財産は都辺の宅地に大方呑みこまれてしまった。そして木造アパートに生命を賭けた。進駐軍の撤退の横浜港は浮木塵介で海水が見えず、西口の広場の外れには仮家の間口一杯に「富士銀行」の看板が掲げてあるだけだった。

 貿易港の辺りを眺めて、戦災の緒未だし復興はこれからだと見えた。

 職業転換の売買は綱渡りであった。三か月余にして完成、八世帯礼金.敷金.前家賃を一緒くたに纏めて最終列車を降りる。徒歩で八粁を帰ると親父を起こして現金を差し出す。二十二万円であった。「毎月七万円は入る」

「おらぁ煙草作りの五年分だな」親父は束を撫でる風にして言うと、そっくりそのまま膝許へ戻して寄越した。

 小さく座っていたお袋はとうとう何も言わなかった。

 銀行から初めて手形借入れをもって融通してもらっていた。

 お金はそれでも足りなかった。窮余の策はまだあった。姉妹六人は

嫁いだ夫君の家系は歴とした系譜に繋がり、それぞれ一角の見識を有する鏘々(そうそう…勢いの盛んな)たる兄貴どもであった。

 「兄さん、金を貸してくれ。無利子だ」頭割りにして三十円だ。

 明日の食い扶持も無いのだ、舎弟を救うのは当たり前だ。それに俺の親が十七年以上も手塩に掛けて育てたものを、唯で呉れてやっているのだ。この論旨は一言も無く満場の賛同を得たのであった。

 散々に世間の嘲笑を浴びた。口コミは、「釜返し」「逃亡するのだ」

周囲からあらぬことを、親の耳にまで近付けたりするのも世間である。

 

 ガラ掛けの手法は立ち引きもあった。立ち引きは、下流に竿いっぱいに振り込んで伸ばすと、次に漸次間を置いて曳く、休めてはまた上手へ

と引き揚げていく仕方だった。私のは横に引くから横引きであった。

 立ち引きは流れの急な場合など、効果があって大漁することもある

と言う。更にがらがけのうちには、チッキラ引きがあると宣う先達連中があった。

 先輩や応援諸子の導きによって、カタカタと玉石を曳きまわす方法を、錘を軽くし、水の深さを浮かし曳きすることに操作することを思い付いた。こんなことから、縦横にひく、底から浮かせて曳くなど、複雑な相手攻略の釣が容易なものでないことを知らされた。

 私には昼の弁当が御法度だった。食い物を活け呑みにする、漁師はこれで胃腸を損ねるからだ。だが釣に専心打ち込むと、腹の空いたも承知の上だ。大抵は漁が在ろうと無かろうと、日暮れまでは平気で稼ぎまわるのが釣り人の癖という。

 お盆過ぎまで直射日光の真下で無償の研究努力が、連日続けられるのであった。だが予想だにしなかった抗議が飛んできた。「やいッ、おめえだろう、釣針がざっと四.五十さ、錘玉十五ばかり、丸めて沈めて置きあがったのァ」 「投網打った一網さ、のっこり絡まってきた、網ば散々傷めぁがって」 同級生の伊藤君であった。

 抗議の主はまだあった。

「あのなァ、魚ァ掛けるんだ、魚掛かるほど、道具ぁ傷まねぇもんだぜ」 先輩の正太郎さんは宣(のたまう…言わッしゃる)うた。

 「はぁ、未だ一匹もだめでさぁ」ご両人はどちらも生え抜きの川人(かわと)である。漕ぐこと、投網の技法、竿の扱いから魚況の判断、晴雨の駆け引き、水の流量など魚の位置の観測は、なかなか奥が深いものだと説くふたりだった。

 「ひっかかる奴もあるさ。」果てしない難儀な漁師の道である。

 魚の釣れる日は何時のことだろう。竿も三本買い込んでいる。

 私は釣専用の胸元まで入り、滑り止めの付いた胴締めの靴を求めた。値は一万六千円もした。スポンジ状で暖かく、胸元で締まっいるから水没は大丈夫である。ごろ太石の滑りにも靴底の滑り止めが確りと守ってくれる。プラスチックの舟型玉網を腰に付ける。 待てども魚は捕れない、向かいあった彼方が捕れれているというのに。 大瀞を大凡三百米を下がれば、孤舞柳のざら瀬にかかる。この瀬落ちが漁場にならないか、三日市瀞は広い、足場が好く邪魔もない。漁師は常に休みなく続いている。人々を嫌って魚は瀞尻に逃れる。食い込みはすぐ下の瀬に下がって藍藻を食うだろう。

 この仮説を立てると早速仕事に掛かった。西側岸の足場確保である。岸辺は出水の肥しがきいて雑草は背丈に伸び放題の山となっている。河原萩.ねこ柳.蓬の類が密生している。刈り払い、ねこやなぎの株は鋸で切りすてる。

 額に汗が噴き出て来る。素手で拭いながら息を弾ませて伐採する。足場の仕上がりはなんと十米がそこそこである。仕方がない、誰も踏み込んでいない初場所である。

 ひと休みすると試し釣りだ。四号玉に七号針三本碇を三組仕掛け一号テグスで横引きは全く釣った試しがないが、慣れた仕掛けである。

 突然震えのきつい抵抗が手元に響いた。

 「何だッ」 魚だ。どうする。

 魚は川下の方向へ強い力で引っぱってゆく。負けないで争えば一号テグスは切れちまう。緩めねばならない。抵抗は一刻の休みもない。

 そうだ咄嗟に思った、脚を使うことだ。足ずりで穂先の衝撃を少なくせよ。静かに川下に下がれ。静かに。

 しばらくすると、緩みが弱くなってきた。気をつけろ、刈り株が危ない。手応えはなお緩やかにひびいてきて、確かな針に掛かった塩梅は、外れそうにない自信を持つに至った。

 斜めに下手に傾けた竿が、小刻みに震える糸をピンと張って、水面のすぐ下に白銀の魚体を見た。思い切って張り上げた。

 夢中のうちに魚体が真白く輝いて、川と陸との中空を一筋に連ねて、激しく動きながら手元に向けて飛び来たった。

 跳ねた魚はひとりで足元の叢に落ちた。

 

 一尾。これが初心で最初の獲物となった漁獲物であった。

第2章釣り場を探して

 

 夏は酣にして万象は悉く生気に萌えて、森羅は面目を新緑にみないろ染めている。われ人生の一夏の時は既に過ぎた。だが人生の四季は未だ遥かなリ、無量深遠の究極を尋ねるのはなかなか難いが、発起した釣の道に今分け入ろうとしている。

 漸く振リ回す竿が、腕の捌きに従うようになってきた。仕掛けの配リもほど好い壷に向けて働くようになった。このごろは、帽子を飛ばしたり背中を引っかけて丸裸で針を抜き取ることも稀とは相成った。

魚を捕るには漁場が要る。それよりも、どんな場所が良かろうか。

 風景に楽しみ流水と語るには、世の交わリも程々がよろしく、ひとリで閑の永いところが宜しい。

 すこし上流に遡って銭棚(ぜんだな)に行ってみよう。

 銭棚の名はかなリ古くから唱えられている。ここは北上山脈の最南端を北西から南東に向けて、風雪に晒された岩石の崩壊と、浸蝕作用によって造られた峡谷の一節が、断崖絶壁を創出したところである。

 銭棚は崖の麓を狭い国道が川に添うて、急流の鳴瀬が岩を噛み渦を巻いてはしり、花崗岩の険崖が国道を直角に、行きを帰りを意地に遮っている。ドライバーが腕に覚えのスピードで、通過を試みた未熟者が、無残や絶壁に人車諸共激突し、狭間にぶら下がっていたこともあった。

 銭だなとは岩石が棚に重なって造られた崖を表した古語と伝えられる。

 直角の崖を削った下に「揚巻淵」がある。五十米下流には銭棚懸崖が滑平らに脚を張出し、突骨の巌頭が洪水に逆らって、水底の深さも知らぬ銭棚淵となる。まだ砂利敷き道のでこぼこは、バイクは不便であった。

小型バイクを道端に捨てて、道端から滑平石を降りれば川底が妻先に淵を接する。

 一歩滑ると毛一筋の救いもない深淵が大渦を巻いて黒く澱む。

濯が置いた足場に道具を並べてグラスロッドの引き抜き竿を装すると、岩根に腰を据えて、糸を水に浸して吐息をつく。

 西山を仰角に仰いでみると、雲一つない紺青が明るく広がっていた。

 今日も天気はきっと晴れるに違いない。鮎は晴天は貪欲に食い込み、驚くほど成長するものだと聞く。竿を握り右足を前にすれば、竿を振う姿勢は川下に面する。仕掛けを後に振り、反動で返ってくる仕掛けに僅かの力を添えれば、仕掛けは勢いよく水中に吸い込まれていく。

 四号玉の錘は道糸の抵抗すらなく足元近くまで沈んできて底に落ちる。十米の竿糸が危うく全長を直角にするほどの深さであった。底のあたりは砂である。今度は横引きに変えて、真正面の岸の浅瀬を当てにがら曳きを運ぶ。擂鉢状の向い端を、法面の砂利を目当てに根限り責めるが応答がない。

 お昼は岩場で餡パンを立ち食いだけで釣仕(ちょうじ)に専念する。

 道路添いを出直して上流の揚巻淵に降り立つ。

 崖の途中は捨土や割石の置き去り野面に立って、淵頭を狙い、向こうの瀬中から手前に引いて掛けてみる。底に割れ石が乱雑に転がりこんでいて、珪藻を喰む鮎の反転が波間に鋭く光る。だがいたずらに針が取られ、ときに錘から仕掛けそっくり根掛かりするのも一切ではなかった。 揚巻淵の上流は、川幅か狭くてどうどうと重なりあった水勢は、泡を噛んで落ちてくる。荒瀬を横切って一枚板の並べ架け橋が、叉股で支えた桁で掛かっている。板は気仙杉の巨木を十糎厚挽きである。

 板を継ぎ交わして掛け渡す。これが四.五軒の生活を支える動脈と為る。置かれた叉股、そしてここの集落を「どのがま」と唱え、橋の名も「どのがまばし」と彫られてある。遥々広田湾に流されても、「橋材発見す取りに来い」風の便りでかんながれ橋は、逸早く知らせてくる。

 斯くて地域の扶助は即刻の災難を復旧に走らせるのであった。

 銭棚淵に戻って更にがら掛けに没入し、飽きの疲れに病んでいると、後ろから間遠い人声の降りてくる音がした。

「掛るかねぇ」現の夢が覚まされて、ぎくりとしたがすぐにわれに返った。槻沢に住む松田峰吉さんであった。

 「今日わア、さっぱりだめだねェ」

 時刻は既に三時を廻っている頃か、峡谷の西日を高く仰ぎ見て、黄昏の程近い刻限を覚ろうとした。

「邪魔してわるいねァ」松田さんは余ほど前から魚釣りを見てたらしい。

 「さつきから見てたんだょ、誰だろうと思ってな、まさかおめぇさんが魚釣とぁ、思わなかったからょ」

 「はい、始めたばかりでがんす、どうか宜しく願いやす」

 竿の運びは滞るところなく、でも、どちらも魚の捕れた様子がない。

 松田さんが話す。

 「本当はね、ここぁ落ち鮎どきが好いところなんだょ」

 九月になると抱卵が腹を充たしてくる。やがて一葉、また一葉病葉が散り始めてくると、こんな淵に降りて群れを造る。

 群が集まって淵が醸す渦巻に添うて遊泳する。渦巻に添いながら魚群の遊泳がそちこちで集団の跳ねをみせてくれる。日足が短くなってくる、紅葉の便りが聞こえてくる。これからの夕闇の迫るころ鮎は一斉に落ちてゆく。深みゆく季節とあわせて大瀞や淵に集まっては群団を作り、産卵のつき場へと鮎は下る。ときに黯(かぐろ)い色変わりの水面が流れるときをみる。成熟した自然が与えた落ち鮎大軍団の新しい命を産み永らえる営みに落ちて行くのだと話していた。

 松田さんとの出会いはそれから度々続いた。そして経験から身に付けた漁の知識を話の間に聞かせてくれるのであった。

私の釣場を探すのは、ただ探すばかりではない。やっぱり漁に親しむのが本望であるし、雑魚でも好いから時には釣りにも接して見たいのが願いなのである。

 私の川巡りは、いっこうに魚が捕れない釣場探しであった。

 世田米川口に荷を下して、上流の鮎捕りをためすことにした。岩間を縫うて清水か瀧となり、取り残された突骨の岩を渡って「チッキリ」掛けをためしたこともあった。あたりの風景は四方から山波が迫り、欝蒼たる緑は足元のせせらぎと和して暫くは吾を忘れることもあった。

 山峡の町場はそこが流れに沿うてあり、流れと同じにして道路が通い狭い谷間を三條の人と自然の共棲が、互いに交錯しつつ川の流れと共に果てしなく続いてゆく。

 世田米の町並が疎らになると、家並の合間を、ふと左に入ると、細い板橋が西側の耕地に唯一つの近道に設けてあった。単車を寄せ倒して危なく橋を渡り、三間半の竹竿を繋いだ。下流に比べるとここは川幅が狭く水量も少なかった。頂を差し出すばかりであとは玉砂利が綺麗に洗われて敷き詰めたように置かれてあった。

 仕掛けを錘が丸玉四号に軽く、針は碇状三巻五号を用いる。

 このあたりは比較的斜度少なく、両側の樹木の枝が垂れ交わし、岸の荻.萱葦の草丈が低く竿の操作は、なにしろ未熟の腕では思った以上にたやすくなかった。単順に川下に打って、引揚げる所謂チッキラと申す掛け方のみに始終する。位置を次第に下流に移しては、鮎掛けは再び欠伸の(あくび)頻りにして、町裏にさしかかった。

 西側の川岸は変に乏しいが、流れが俄かに深く掘れて家並の軒下あたりには、地下より産まれた巨巌が競上がって断固と宅地敷地を防御していた。其処は陸と川の境で、あい譲らぬ圧力が川底を深くさせていた。僅かな溜りとみえたが、深いところだった。慣性の竿を下流に振るってその深い辺に落した。突然「ぶるッ」泰平の夢驚かせて竿がしなった。

 道糸は一号で針は小さい。足元は無事である。地の利を聞かせて大胆に引き抜きを図った。

 魚は川下に引っ張る。糸を切ってはそれ迄だ。腕はいっぱいに魚を追って、身体までが着いて行く。行止りか、魚は岩裾の深手から去ろうとはしない。腕に力を篭めて「曳き抜き」にかかった。

 技の巧に「水面に魚体が上がったら、一挙に取り込め」こんな戒めがあった。尻尾の跳ねで針を外すからだという。

 姿勢を正して陸に向けて、放り飛ばしてやる。短矩の姿は川下の鮎に異なり肢体が張り切っていた。水勢がつよいのか清冽な水質が珪藻を豊かに養われ、鮎は豊かに丸々と育っている。

 掴んだ掌を拒んで暴れる感触に、捕獲の野性が快く五体に響くのであった。

 岩根の澱は淵を為しているのか、鮎は群生するという。引き返して新規の心で許の位置から仕掛けを投ずる。果せるかな、程無く数回にして鮎の漁があった。更にまた一尾を揚げる。確かな漁獲を実感する。

 釣場さがしを世田米に向けた。先日の漁があるからだ。だが大漁に二日無しともいう。思いでた気侭に尋ねて見ることだ。

 街の外れには小学校がある。程ない距離に東から流れ出る中沢川が気仙川と直角に合流する。気仙川と並行して国道が走り、中沢川を渡れば左側に県立世田米病院が建つ。病院の後に気仙川が流れることになる。 此処を尋ねて私はがっかりしてしまった。何ということだ。

 病院の周囲を周って川に通じる径がなかった。橋の手前も町並みで、大手を振って罷り通るのは痴(おこ…ばか)の沙汰である。この上は、随分離れた国道を下って橋まで遠廻りしなければならない。

 漸く行き着いた釣りの場所は、予想したような釣り場所はどこにもなかった。

 ただあるのは、広々とした長瀞で、「魚樹に登る景色はなく、藍藻の生える玉石もなく、浅い岸に置き舟が、人待ち顔に待つばかりだった。

 東より西に向けて流れる川は中沢川。中沢には祖母の生家中井家があった。かって自転車が聞こえる頃、人寄せが縁で当主松田八十八翁に接見した。中井家の秘宝「純金一寸八分観音像」を拝見させて戴いた。

 金色に輝くそれとは違っていた。掌中に隠れる程の体躯に、温顔慈悲の相が匂い、掌脚整うて、衣紋の優しく緩やかに流れた姿まで彫られていた。鈍い黄金色の意外な素朴と、殊の外重かった手触りと併せて、共に忘れ難い印象が深く焼き付いた。気仙の黄金伝説に纏わる縁の深さを更に深くするものがあった。

 家の前を流れる中沢川には砂金が採れる。松田翁は無造作に持ってきた皺(しわ)だらけの和紙を広げた。

 「これがあの川で掘りだした砂金です」、黄色い豌豆大の塊と小豆粒大二個を掌に乗せると、異様な重さにしばらく見惚れていたが、爪先で験した傷の跡に、光沢重さ軟らかさの平凡に過ぎる証と、燦然と輝く黄金宝物が醸し出す、これとの乖璃の甚だしさに、唯々驚かされるばかりであった。

 「これを採るには、川床に荒筵を敷いて底砂利を流す。また、岩床の割れ目に落ちた金粒は杉脂(すぎやに)で採る」採取法に祖先の知恵の巧みさに驚かされた。昔話が何時までも残るのだった。

 誤算のあとは半日唯に過ぎてしまって、両岸を行ったり来たり、歩き廻ったくたびれが、あとの半日も無駄に過ごさせてしまった。

 尋ねると、釣場の無縁な峡谷の落合にも、抜き去り難い祖先の深い縁と古来より語り伝えた、黄金伝説が綴られているのだった。

 世田米街から川下へ降りて山谷沢口を尋ねる。国道三百四十号線は気仙杉の植えられた急傾斜の山林が繁り、さらに登れば些かの田畑耕地が広がる。西方の山襞は谷底へ向かって坂落しの山が、谷川を押し拉(ひしぐ…つぶす)ごうとするばかりに迫る。

 山容はみな植林の杉桧が正列して丈を競い合っている。

 国道を潜って鳴瀬川に落合っている流れは、奔流の激烈な侵食で花崗岩の巌が猪突し、底に伏臥し、荒瀬に吠えて坊主転石、ゴロ太石が折り重なって、自由の流水も、或いは迂回して、飛び越えて、たくみに狭間を忍びながら、白泡を舞わせ瀬を鳴らしながらながれを運んでいる。

 岩の上、岩の下は激流に抉られて、つい何気無く蹴散らして渡れば、しっぺがえしで、浚転(さらいころぶ)んでしまう。清水の転石は面に藻を育て水苔が生えて、足元の要心が釣心の肝心と重ねて山容の風を嗅ぎ、流水の流転に生物の息吹を聞いて楽しみたい。

 落合は石の間にまに淵はなく、中岩が据えられた手前には、砂利の堆積がこんもりと盛られてある。洗い晒した玉砂利が清々しい足場であって、このうえない恰好を極めた憩いのところでもある。

 水勢が夏枯れのうえに、稲田にひかれてすこし和やかな流れである。 道糸は一号に、仕掛けは0.八号に錘を五号とした。瀬落ちが少なくて、岩間から崖縁の棚下を捜し、転石岩石の周りの深場を狙う、此処は典型的な荒瀬と見做すところであろう。

 到る所の各々毎の壺や瀞を捕るには、がら曳きでもあるまい、チッキラ手法であろう。川幅は両岸がかれこれ七.八十米を隔てている。竿はグラスロットと申す物であろうか、握り太で重いのが首肯けないが、六本継ぎが、持ち運びの背負いに便利だから我慢している。七米の竿は使いやすい。

 岩の下側をチッキラで引くのだが、本当は仕掛けの上げたり下げたりの方法が本当のようだ。扇状の要が深くて、半円にすり鉢状の淵はどうも遣り辛い。針の間を近くして、錘は四号が扱いに適しているようだ。

 荒瀬の上流へ漕いだり、渡ったり掛けたのに、昼過ぎの釣も飽きがきたころ、小淵の中でやっと手応えがあった。鮎の抵抗が異様だ。どうも振り切るばかりの激しい力がなかった。淵を巡りながら浅瀬に出る様子もない。ただ重い、引き抜こうとすれば円周が早くなるばかりだ。

 肩越しに背中に用意した玉網(たも)を、左手にもって抜きの力で寄せた。水が切れない。重い魚である。ずるずると曳き寄せられるままに付いてくる。危うく玉網に掬い入れてびっくりした。確かに鮎である。

 鮎ではあったが、元気がなく、暴れなかったのは下唇が半分ばかりちぎれた傷鮎だったからだ。明らかに外傷である。赤い肉色が鮮烈で傷々しい。まだ傷付いてから日が経っていない。二百瓦は下るまい、二十八糎と言ったら世間に法螺吹きと言われようか。構うものか、釣師が自慢など、素直に聞いてやる殊勝な御仁もありはしないのだから。

 田の上山には鉱山があった。地方に産金の鉱区は数えるに暇もないほどでこの鉱山も同じだった。戦争が酣わになるとタングステン精錬として重要な戦需物資増産に、工場は深夜に精錬の音が響き、煌々と輝く光に不夜城を現出した。周辺の山には幾つもの坑口が掘られた。気仙川には貨物自動車が通う木橋が架けられた。従業員から家族までが軒を連ねて暮らすようになった。

戦が敗れて八紘一宇の理想の下、大東亜建設の野望が砕けてしまった。山河が蘇り、人々は戦後の復旧と生活奪回に、心魂を傾けて働いていた。 国敗れて気仙川の清流には淡水の魚が大挙して遡上を見るのはその頃であった。

 「田の上橋」は岩礁が橋脚に替り、流水の中がコンクリートピーヤの木橋で架けられていた。世は移り、鉱石運送に変わり、いまは農林物の運ぶ橋に変った。沈黙の鉱山からは忽ち灯が消えて、軒を連ねて建ち並んだ工夫長屋も今はその影もない。

 流れの瀬を挾んで両岸から岩石が競り出している。遥か彼方より岩塊塁石ばかりを右紆余曲折しながら、崖を駆け落ち、堰止めを超えて落ちる荒瀬の水は、ここの巌の下を深い淵を穿って渦を巻いている。

 夏涸れの水は少なくて、夜嵐の投網が眠りを醒めさせて、日中にも餌を求めないで、黄昏をみると急いで食を探すという。

 橋脚の根元まで、がら仕掛けで探したが、「はや」ばかりが邪魔をするばかりで鮎の応えはなかった。橋から根固めの石張りを過ぎて、氷河期に押し出された、坊主石が堆積されたざら瀬を、縦引きで荒したが、仕掛けを忽ち二組も盗られて敢なく退散してしまった。

 がら瀬を降りると遥々と見渡すながい瀞があった。中ほどに一人釣人がいる。川下の向うにまた一人、随分長い竿を急な角度で立てていて、暫くは動く様子も見られなかった。日除けの顔に黒い眼鏡を掛けていた。 瀞の流れはひどく緩やかである。眉に迫る向い岸は竹薮であった。

 どう見ても瀞の深さは二米は下るまい。とっくに日陰の川底は、だから余計に薄暗い。私は錘を小さい三号に替えて縦引きを試みる。

 峡谷の瀞のがら掛けは、錘を落したら底掛かりに押さえられてしまう。坊主石の入り組んだ隙間は重なりあって複雑である。藻類の繁茂の盛んなこのような流は、新鮮な餌の供給と様々の避難を避ける、兼ね備えた格好の棲家である。

 川下に打ち込んだ仕掛けを、素早く引っぱる。川床の直ぐ上層を引き浚う、川底の位置を這うように。しかも川底の石を避けて魚だけを捕るべく繰り返す。水面下の勘だけで竿先を扱う繊細な手元の捌きかた、釣技(ちょうぎ)はこの動きにかかっている。

 私のチッキリ法も、縦引きがら掛けというところで、釣技の操作は理屈では甚だ明快だが、巧みの技は全く意に反する。いたずらに仕掛けばかりが忽ち取られていく。物凄い消費が繰り返される。

 田の上の長瀞は絶好の漁場の様である。上川鮎の巨きい肢体を翻がえす水底の食みは頻に映ってくる。だが一回ごとに仕掛け直しは無駄な抵抗に等しく、私の手にはとても負えそうにない。

 あきらめて「待ち掛け」の釣り人に伺候する。そして彼の謦咳(けいがい…謹んで話をきく)に接しようと致した。竿はグラスロット七間半、道糸は0.八号、掛け針八号仕掛け糸一号で錘が丸玉三号であった。

 「陽が蔭ってくる頃が鮎の喰みどき」周遊の石を巡る順路が鮎の個性であって、同じ行動を繰り返す。「この順路を探る」そして仕掛けを敷いて置く。後は差しかかった処をめがけて引くだけである。

 飽きるほど佇立して、そのときの来るのを待ったが遂に来なかった。

 彼の魚篭(びく)の中には四っばかりの黒い鮎が並んでいる。大きい姿が行儀よくじっとしているのに愕いた。同じ川に育ちながら清楚な姿の川下のそれとはことかわり、大型の鱗片の残れる漆黒の剛さが膚に現れていて、峻厳な荒川に順応して、神速の遊泳に鍛えた生命の峻烈さを、はち切れそうな姿態に漲ぎる様は、魅せられるような思いであった。

 田の上瀞を下ると西側の山襞が鳴瀬の激流に削られて、山の岸は一挙に流れにどっと落ちこんでいる。曲った流れは岸の巌壁に押し曲げられたものであった。曲がりは南東へ折られ其所は淵が湛えられてある。

 「釜淵」という。渦巻流れる水勢に、周辺が丸く然も垂直の法面を構えているという。釜の形の淵はこの川随一の深い淵とも言われる。

 流れを少し南に寄って直ちに十二神の淵に続く。十二神の淵は途中の岩に阻まれて折れ曲がっている。折れた内角は激流の飜転に掘られていて、打上げられた砂礫が岸に丘を造っていた。

 曲がり角の山容は松拍に覆われ雑木林が茂り、到る所に峨蛾たる花崗岩の膚を露す。幾つかの峰を渡れば懸崖に名勝四十八滝の流れを観る。千々に砕ける白玉の滝に憩い、勇を鼓して頂上を目指せば尚この源には男神.女神の祀られ、町村の境界をここに定めている。

 

 東の流れは瀞を造って今度は南東に流れ、迂回して西に向かう。途端に段々の崖を駈け降り、息も付かせず南東に向きを改めて「弥藏淵」に注ぎ込む。蛇行を続け、変転曲折して景勝を誇示しながら、鳴瀬の渓流には到る所に絶好の釣場が散在している。

VC前
VC前

第3章  友 掛 け に 挑 む

 

 人恋うて里に羚が下りてくる。里恋うて御墓参りの帰省客も、忽ち遅れ盆が過ぎるとまた戻ってしまった。そして寂し気に羚も還っていった。 稔りの色が黄に染まり、露の重さと実に堪えかねて、稲穂の首さえ傾いてくる。

 松田峯吉さんから電話が入った。「銭棚淵がそろそろ好い季節だぞ」 日はまだ暑いけれども、帰省の客の影も薄く、朝な夕なの涼しさは、そっと秋の忍び寄るのを、生き物たちはもう知り過ぎている。

 忘れたころに漁のある、偶然に訪れる漁を見るが、未だし「鮎を捕った」しみじみとした快感に浸る験しはなかった。

 今一つ竿の不満がある。手に馴染まないから竿の咎にして、兎に角竿を求めるべく店に走った。勧めに沿うて化学製品グラスロットという五本継ぎで四間を急いで買い求めた。

 道具を背に釣竿を肩に、腰の周りにバイクの荷に積み込んで銭棚淵に

むかった。もう三時に近いころか、淵のあたりまで誰もいなかった。

 国道から下りればだらだら下りの嘗平ら石に降りると仕掛けをする。

 穂先の蛇口と穂先の弾力を少し堅くするために三十糎ばかり切り詰める。堅口は急流の釣取り込みのとき扱いやすい。蛇口を捨てて綿糸に結玉を拵えて蛇口に取り付けた。輪型のテグスを二重に巻けば、忽ち取付け外しができる。優れた先輩の知恵が光る。

 穂先.穂持ち.穂持ち下.三番.二番.手元、よく確かめてみると

竿の名は確と名前があった。五本継ぎはなんと六本継ぎが正しかった。

 銭棚崖が道を越えて嘗平石に替わり水勢を潜って川中から坊主頭を覗かせる。淵に広がる銭棚は岸を流れて足元の縁を作り、顎の洞は鮭鱒うぐい鰻の隠れ家となる。まして山女鮎の棲みかは元よりのことである。

 四間の竿は銭棚淵を一跨ぎに飛び越してしまう。錘は三号だから軽くテグスが風にからかう。竿の長さが振りの調子を全く変えてしまう。縦引きとも横引きなど気儘に釣を楽しんでいる。

 「やぁどうだえ、釣れっかねぇ」峯吉さんだった。彼は淵尻の水が流

れ出るあたりでチッキリ掛けを始めていた。邪魔を張らないように、若輩を労わってくれている。離れたところからそっと掛けている。

 突然衝撃が全身を突っ走る。「きたっ」竿を揺がせて魚の抵抗が手元に強く響いてくる。

 ぶるる…と小刻みの震えが強い。逃げる引きと合わせて鮎の抵抗であることは間違いない。引きが激しく、底に向けて絶え間がない。

 殆ど底をめがけてまっすぐらに向かっている。

 根掛かりに気をつけろ、底に掛かれば万事窮すだ。捕る欲望と取られる失望とが交錯する。

 上川の鮎は強い抵抗がある。重い力は恐いくらい激しく加わってくる。 それだけに捕る欲望が、捕まえる好奇が余計に高まるのだった。

 寄せようとする。どこまでも底に潜ろうとする力が頼みの糸に容赦なく加わる。淵の中では「寄せ」は真上に引き上げることだ。

 ゆっくりと暗がりから銀鱗に包まれた鮎が揺り動いてきた。

 引き抜きだ。真下に向けた抵抗を、無理矢理水中からひっこ抜くのだ。 同時にこれは寄せと取り込みを一度に用いる方法となる。大きい鮎だ。

 裾針が弾みで靴を突き通して脛に食いついた。「痛いっ」鮎が外れた。鮎は嘗平岩の裂目に逃げ込んだ。ぴんぴん跳ねている。岩は斜めに流れになだれ込んでいる。

 急いで竿を投げ捨てた。夢中で魚にしがみついた。鮎は少し冷たく固い手触りがした。鱗は見えないが確かに鱗の形がすると思った。

 「しまった、魚篭だ」私はバイクに走った、魚篭は積んだ侭だった。大急ぎで魚篭に納めると、銭棚岩璧から落下する道端の水を受け止める。 抵抗の後の回復は、私の川岸から這い上がった動悸を静めるに同じであった。大川の流れに魚篭を鎮めると、口の呼吸は大きくゆったりしていた。胸鰭の下の黄色が鮮やかに見えた。

 洗った筈の掌から、鮎の生臭い香りが強く鼻を突く。荒瀬に鍛えた肢体の弾力は身が引き締まっているのを感じさせた。

 上流の鮎は身が引き締まっていて歯応えが良く、鮎の香りも新鮮で特有の風食が漂う季節の王者であると賞揚を惜しまない。

「やったな、大っきいようだったね」松田さんの声だった。

「お蔭さんでしたぁ、やっぱり上の方を引っ張るんだね」

 「水面から川底の中間をチッキリで浮かせて掛ける。」松田峯吉さんがこう教えるのだった。秋の季節に落ち鮎は、下流の好適地に向けて産卵のために大移動が始まる。餌は要らない。淵に落ちてきた鮎はただ泳ぐだけである。深さの中ほどを巡りながら遊泳するのである。そしてときどき跳びはねる。鮎は帰りの長途の間餌を摂ることはない。

 「大望成れり」私はこの時思った。これを囮りにして「友釣り」に挑戦してみようと思ったのである。

 「竿師勘龍」が教えた。「釣の奥義は、ドブ釣りではない、がら掛けでもない、友釣りをもって本望とする。」先輩の説くところは趣味の釣りであれ、捕るばかりではなく自然に親しみ、川に遊びそして跡に乱すことがないことである。と言うのであった。

 囮の鮎は一尾では心許ない、予備の囮りをあと一つ欲しい。

 嘗平ら岩の角に立って、向い側の淵法に打ち込んで横に引き掛ける。すり鉢状の法面には晩生型の大物が居るそうだ。縦引きを交互に用いる。どちらが良いものか、たった一匹の大物を捕っただけでは、釣の効果を

試す合理性は解けてこない。中間を浮かせ引くには、仕掛けを軽くしなければならない。それには錘を軽くすることが先決であろう。それから掛け針は小さくテグスを細くて丈夫にする。水の深さと仕掛けの沈む速度工夫は際限なく続きそうだ。

 だが頭脳が漫歩をとめどなく彷徨うているとき、鈍い竿の響きが目を覚まさせた。「きたっ。」激しい動き、手応えがある重量感、きつい抵抗が深い底に向けてぐぐ…と引いてゆく。

 鮎は只管底をめがける。穂先がしなやかに曲線を画いて震えながら耐えている。反射的に獲物に抵抗する。先のときのような手順など皆目起こらなかった。ただ揚げるばかりだ。そしてあっさり取り込んだ。

魚篭に入れた瞬間驚いて飛沫を飛ばして狼狽えたが魚は二匹ともすぐに並んだ。抵抗の少なかったのは腕の所為ではない、腹尻に掛かったためであると松田さんは気の毒そうに笑っていた。

 「峯吉さんお先しぁんす」もう十分の漁であった。

 「もういくの、落ち鮎はこれからの時間なんだょ。」「焚火材料も用

意してきていたんだし」「焚火を明かりにして、これからが掛けどきなんだ。」

 「はァ、お陰さんで今日ァ大漁だから止めゃんした。」

 「なんぼ押ぇやんした。」松田さんは竿を振りながら顔を向けていた。

 「はあ、でっかい奴二っつでがんす。」私はこの他にも漁を得た験しがあった。しかし銭棚淵での今日の収獲の満足には及びもしなかった。

 落ち鮎の季節は長い澱、深い瀞そして深い淵に集まり、集団を作って

落ちて行く。

 落ち鮎はがら掛けの仕掛けは特別に用意しなければならない。

 その上で、がら掛けの曳き方は水深の中間を狙うことにあると教えられたのであった。

 私は鼻歌混じりで意気盛んにバイクを走らせた。荷を降ろしてみると魚篭の水は揺れ飛んで、二匹の鮎は残り水を啜りながら白い唇をパクパクさせていた。横たわった鮎は沢川の水に浸しても起き上がれなかった。とりあえず塩を塗りつけて冷蔵庫に仕舞う。忽ちなれてしまう鮎の始末はどう扱うのかこれは本職に聞くに限る。宿願の種鮎は絶望のほかない。

 近所の伊藤さんを尋ねる。夕方の店は忙しそうだった。お内儀さんが日用雑貨を商い、ご主君の方は仕切りの隣で鮮魚の商売を営んでいる。

伊藤さんは川舟二双を持った漁師であり、投網の名人である。

かれは包丁捌きで忙しそうだった。

 今日の大漁を少し抑揚を付け加えて捲したててやる。

 「おめえさんゃ、一尺は大きすぎる、なんぼ押さえたんだネ、」伊藤さんは動かす包丁を休めもせずこう言うた。

 「はァ、数は二っつさ、大きさはほんとだよ」

 「うフッ二匹かァ、そりゃァたいしたもんだ、素人のおっさんにすりゃァな」伊藤さんが急に振り返って話す。「今時の鮎はナ、腸を取らねばならないょ、流れてくるゴミを食ってる。砂を噛んでいる。昔のような大事な「うるい腸」は今は無い」驚くべきことだった。

 私は餓鬼っ児から貧弱で、黒い生臭い苦い「うるい」が貧血の気付になる、夏負けの妙薬だ。と爺さんと婆さんが親たち一緒になって押しつけて寄越したものであった。「鮎は屍んだらすぐ萎びる、萎びたら三文

の値打ちもなくなる。」伊藤さんの鮎談義が続く。

 「鮎の料理は新鮮なものに限るものだ、料理は塩焼に限る。生きた侭焼けば鰭全体が体に向かって直角にピンと立つ。」

 「ガスやレンジはやめてくれ、木炭で焙り焼き、茶焦げのところを膳に供する」

 「だから貯蔵が大切である。貯蔵には適温がある。冷蔵庫は家庭用だ。漁師は冷凍庫を備えるべし」ということだった。天然鮎は高級魚である。需要は無限である。

「手間代になる一生懸命やらっしゃい。」

 伊藤さんはでっかい私の漁については何も言わなかった。

 「不思議なことに、素人のへたっくそに、得てして大物がひっかかるもんだ」と仰有る。

 「昔から合歓の木淵から上流は、御止め川といって仙台伊達公に献上の後でなければ、みだりに川にも入れなかった。」

 「今でも上川もんには、一瓩毎に手拭一本ずつ、御祝儀が頂戴できるんだ」 私は嬉しくなった。いまに見ていろ、きっと貰って見せる。

 「ハァ、そうしかァ、ほんじゃ俺ァ貰ってから浴衣を作って見せる。」 正太郎さんは仕事にかかって聞いていなかった。たかが娯楽の魚釣りである。家計になんの差し障りがあるものかと、軽く去(い)なしていたのだが、決して物いりはそんなに容易くはないようだ。

 用具類が随分かかる。掛け針は六号から九号まで矢島、きつね、袖型の大きさと形の選択がある。それも碇型の巻いたものがいる。

 錘が丸玉の奴を二.五号から六号あたりで百個は必要だ。竿は長短硬軟数え切れぬが、グラスファイバーとかグラスロットとか三竿を新しくした。竿一竿が五万円だ。四百瓦の重さは改良が間もないと言う。

 やがてこの改良も瓦当りの高値を呼ぶような時代がくるのだった。

 今日は「ねぷた淵」を尋ねてみよう。合歓(ねむ)の木淵は、気仙川に掛かる小坪橋から、上流にむかって二百米のところにある。西山の麓を山津波か洪水が火成岩を削って川底に奇岩を遺し、巨石を転積し、東に国道と並んで川原を挾みこの障害を避けて鳴瀬が流れる。

 岩石が重なり、転石が岸辺を埋めた不動石を抱えた、樹齢数百年の合

歓の巨木が山桐.川柳や荻薮の頭上遥かを傘に掛け被うて、静かに渦巻く淵は翳り、ほの暗い渚は神秘の影を宿して、岩影から河童の霊が湧き出て来そうである。

 四日前の銭棚淵で、上川鮎の下りものを二本も漁している。松田さんの説に従えば淵に溜った鮎は、頃を見計らって抱卵の育ちに連れて、次の淵へと下り、産瀬へ向かって遊泳し続けて行くという。合歓の淵は次ぎの宿と推察する。

 真新しい新調のグラスロット竿を引き伸ばす。錘を仕掛けのテグス一.五号に道糸一号、それに錘三号とする。水深の中ほどを狙う落ち鮎掛けの浮かせ曳きである。この掛け方は、言うは易いが行なうは難い微妙な呼吸の、瞬間の間の駆け引きである。

 上流の方は七十米ほど割石転び石が河床に折り重なって、白瀑を噛んで走り下っている。この瀬頭は菖蒲が淵に連なり、一足登るとすぐに舞出堰堤が築堤されている。

 菖蒲辺りに竿掛けが見える。私に似ている。竿の振りは勇ましい。流れを叩いてる。こちらは先客である。鮎掛けは経験している。

 だが何時までたっても鮎の掛かりはない。向こう岸の滑平石に打ち込んでの横曳き、川下に打ってからふかせ掛けと心ばかりは逸るのだが、落ち鮎の気配は更にない。今はやたらに仕掛けも投げないが、渦の静間に産褥に備える鮎の跳ねる影も見えない。獲物の有るか無いかも知らぬまま、只管にただ待つばかりの味気なさは、ほんに仕様が無い釣師が間抜けの救い難い仕業であろうか。

 合歓の背後は宝田字の地域で、官公造林の施業で、桧拍杉山が大森林を造り、深々として、か黒い影が数百町歩にまたがり聳えている。

 多可が知れた娯楽である。暇つぶしの趣味とは言うものの年嵩の仕種は炎熱のもと、流水の冷えの一身にはなんとも酷(ひど)い仕事である。

 下りの鮎はまだらしい。もしや此所等辺りと図ったが、どうやら当てが外れたようだ。真新しい流砂の礫(こいし)混じりの砂山に尻敷けば、さらりと崩れる座りの心地良く、競り下る瀬音も愛でられて、暫くは憩いの息を大きく呼吸する。目指す友掛けの囮鮎は今日も駄目か。

 菖蒲が淵のあの野郎、見せびらかすように大様に、魚篭の中へとゆっ

くり仕舞ってみせる。

 とかく世間は儘(まま)ならぬ。合歓の淵の釣りは、またの機会に譲って勝負を賭けよう。

 

 気仙川をひもとけば、水害洪水に加えて凶作飢餓の災害地の歴史である。横田の地名は郷土の里人の、理想の憧れを標榜したものであろうか。

「横田流れ」の伝説は悲しい物語が多く語られている。

 今から二千年前原始の頃は、鳴瀬の川は東の高台を流れた。小金山、久連坪(現小学校)付近は、丈余の底まで砂礫に埋まっている。

 根岸の家名に岸辺を指し、越戸内、百目木前の荒瀬を落ちて「下沼」を造り、川戸家近くを掠めて友沼に入る。西宿川戸前を下って太田を流れる。

西域は山麓を岸にして穴淵を穿ち、後北家を回って薬師岩を噛み、平林家の麓を削り、横田盆地は耕地全域が決壊し、荒廃に帰してしまった。

 伝説は天災地変の「横田流れ」に始まり、砂金掘の「横田流れ」と続き「嫁入りの箪笥」「良球の川流れ」「堰堤の人柱」など数々の物語が伝えられている。

 昭和十五年頃まで荒蕪地であった。洪水山崩れが荒らした荒河原には、水が運んだ皀莢(さいかち)唐桐鬼胡桃の乱立が見られ、岩石、砂礫の河原を埋めて荻や萱、泥柳、赤茨など生い茂り、月見草が群生したり荒れるが侭の人畜も入らぬ荒野であった。

 世界大戦勃発と共に緊急食料増産の掛け声に神成地区の開拓に始まり、ついで食糧不足時代の到来で、国庫補助により土地改良事業が施工された。十有余年の歳月を経て、西域三十余町歩を見事美田と化した。

 

 落ち鮎の溜り場に違いない。一人で合点の上、真夏に戻った天候が幸いかも知れない。護岸の天羽でも今は岸辺の底である。川下はどう見ても二米は下らない深さに達するだろうと思う。国道からねこ柳茅など越えればザラ瀬が注ぎ込み、友釣りの好漁場に適しているように見える。

 後の藪が邪魔になる。流れに沿って三号錘を仕掛けた縦曳きのがら掛

けで始める。一足ごとに川下に移りながら、横曳きも互い違いに混ぜて、もはや大車輪のめちゃくちゃ漁に他ならない。後の薮に絡まったり、軽い三号玉が途中に落ちたり、そして足元は一足ごとに深くなってゆく。 やっぱり川下は深い。日は天に輝いて、半袖から抜け出た腕がヒリヒリする。長い履物の中が汗で濡れている。体が気怠く蒸されてくる。息苦しくなってくる。たまらなくなって、河原の砂利に這い上がり、脚を投げ出して、靴下を脱ぎ捨てると素足を太陽に曝しだした。

 一颯の初秋が涼を呼んで、ふやけた足が気持ち良くたちまち小さくなってゆく。ツアーバックにポットが仕舞い込んである。日用品雑貨店から贖ったコッペパン大一個を取り出し、川のせせらぎと語らいながら、綺麗な大気を天与のお和に、天と地を一つに絡めて頬張る。

 豪華な振舞に孤独卒然として雑念を祓い、端座し、山川に囲まれつつ、またも一杯の薫りを存分に賞味して舌鼓をうつ。

 咽喉の渇きが訴えれば、孫がピクニックのポットをとりいだす。

 加減宜しかろう緑茶の煎れた一服を渇きに潤せば、世界の珍味は何するものか、天地自然の数寄に座して稀な天恵に満腔の謝意を献ずるばか

りである。

 渇いた長靴に脚を固めて、釣り人の心整えて今度は瀞への落ちこみを探ることにした。日和のときは、空いたお腹になれば、瀬苔を食べに上るという。ザラ瀬をもっと登って中ほどから縦曳きではじまり、坊主石には周囲を責める。浅瀬は、石掛かりから底掛かりがじれったい。

ザラ瀬のがら曳き釣りは辛抱と我慢のしどころである。

 明日は天気が変わるらしい。昼前の西風がピタリと止んだ。傾きかけた西日に山の影が川面をかくしてしまった。夕暮れか。そのとき、竿を掌から振りきるばかりの乱暴な曳き、途端に川下に向けて邪険に引っ張る。私は糸が切られるか危ぶんで、体一杯で耐えようとした。

 それでも足りず、腕関節をまっすぐに、のめりこまんばかりになって、ととろ歩きに身を支え、やっと瀞に入った。

 暴れ瀬鮎に眠気を覚まされた。平凡な鮎はむしろ鰯型で、スタイルだけがスマートだった。

 薄暗くなってからまた一尾を捕らえた。数えて六匹、堂々たる大漁の

善き日を満足しながら家路を辿ったのであった。

 頭数の大漁だが夏負けの痩せ鮎ばかりで、予定の囮鮎は今日も捕ることができなかった。

 秋も中のころ三日市の西側に戻った。少しばかり私が刈り払った川岸を延々五、六百米に亘って綺麗に整理しておいてくれた。草刈りは好し、川柳や笹竹 の雑木類は刈り株の怪我を避けて、地擦りすれすれに鋸弾きで倒しておいた。

 小波さえ立たなかった瀞は、瀬尻が出水に浚われて落され、いまは所々に坊主頭が出ており、かぶりの漣が至る所に波紋を描いていた。

 誰かが来るだろう。原野の侭で流れていた川岸はいまは人の臭いがきついほど漁場になっていたからだ。

 慣れた釣の腕にもあろうが懸崖、急流、打っつけなどの荒瀬を渡り歩いてきたら此所は誠に易しい好い漁場である。グラスファイバーの七米竿は重いが収納挿げ替えが便利である。横引きに軽玉仕掛けで引き、許に戻って縦引きを投じては掛けている。

 真向かいの川縁にそれとすぐに判る漁師が現れた。退屈の不漁のとき

に敵陣参上とは勇気が湧いて士気愈々盛んになる。

 だが天は吾に味方せず、間もなく手応え確かにあって穂先が弧を描き、穂持ちが弛んで手元が蠢動する。後方の向こう岸に振り向いて「見てくれ」の仕種を送る。無言の侭だ。姿勢を斜に構えて腰を落し、大胆に抜き間発を入れずに玉網に取り込む。いけない、手も入らない子供用の魚篭だった。慌てて素手に捕まえようとしたが、振り子の鮎は空掴みで後にいってしまった。戻ってきたがまた失敗で自制を無くしてしまった。意地猛々しく力み返ったのがいけなかった。ぽたりと落ちた獲物は後もみないで消えてしまった。

 未だし、私の実力は斯くの如しと言うところだ。

 

土手に登って天下の形勢を眺望する。

 東に場を占めて手裁きの唯者でないがら掛けの横に引く様は年期が這入っているようだ。グラスロットの長い竿は十米もあろうか、錘の反動を巧みにこなして、こちらの岸近くまで飛ばしてくる。それこそザラ瀬の流れいっぱいに掃き払う。なんと、彼の操る様は振り回すのではない。

あくまでも錘の前からきた弾みを少し後に受けて、返す仕掛けを勢い良く振り放してやる。序々に移動しながら川下にむけてがら掛けは見事だ。 にわかに竿を立てると、静かに歩み、腰にさしておいた広口の玉網に手を当てる。暫くあそばせていて、やがて抜きにかかる。大きく股を開いて手元をあげて水を切る。魚と仕掛けの重しが弾みを加えて真っ直に跳んでくる。左手は正確に広口に止まり、獲物は見事収まった。

何事も無かったように、再び正確に竿が振られ、無人地帯を悠々と後をも見ずに漁に就いている。

 釣り師の技も遥かなりと云う他ない。種鮎が無いというのは言掛りに過ぎない。今日としたが六匹は生きている。生きていて囮の鮎が無いとは嘘になる。何時までも躊躇せずに発奮するのだ。

 

 友釣りに向かって新境地を展開しましょう。

第4章  友 釣 の 技 を 問 う

 

 友釣りを模索してから日が経っている。友釣のために竿も短い三本継ぎの竹竿を用意した。ようやく漁が見られるまでになってからは、囮鮎の適切かどうかの選びかたがあった。掛かり傷が腹だとどうしても浮き上がって泳ぐ。口先が傷つくと口を開けている。目に近い傷の場合は斜めに泳ぐ、もっとも条件の可能たのは背中付近が自然の泳ぎに近いものだ。七十三才菅野伊勢蔵翁の教えるところである。白露の季節となれば雌鮎の要件が足さるという。

 囮鮎の管理が大切であった。裏の小川の沢水に大魚篭で漬けて置く。

 幸い小川の上流には水田が無いから農薬の心配は要らない。ただ沢水の適温が天然に棲む岩女、山女の温度であまり適当で無いことである。

 種鮎の確保にはどうやら自信が持ててきた。

 人の眼につかないところを漁場に探す。後北の瀬がよかろう、袋沢前にもザラ瀬が流れる。世間の話が何をほざくか知れたものではない。

 世話好きは世の常である。余計すぎる指南も消化不良を起こしかねない。国道から横田の狩集字の大凡に広がる決壊あとの原野は人跡まったく途絶えた荒野である。「横田流れ」の横田野東の岸に崩れ残った山桑に、暮らしに絶望した女将さんが、病み疲れた患者が首吊り果てたのもここである。一雨ごとに流れ筋が変わる横田流れにはきっと漁場もあるに違いあるまい。

 朝草刈りの通い道を潜って袋沢沖の西側堤防の流れに至る。囮は一匹玉網に担いでゴム大長靴履き。作業服で大魚篭を背中に背負って岸に場所を占めた。そこは岸の丘である。テグスは一.五号仕掛けが自製のもので鼻環を仕掛け糸に三組で取付ける。尻鰭と掛針との間隙調整装置がこれであって、鰭針間隔が一乃至五糎により友釣りの使命を制する核心のポイントを為す。内心自慢の仕掛けなのである。

 左手に囮を鷲掴みとする。仕掛けの鼻輪を通し腹鰭を付ける。鼻血が出てくる。握り潰したかな、水に流れて横に浮き上がった。鰓の動きが忙しいが、暫く休ませていたが、突然流れの中に消えてしまった。

 秋雨の、降るとも見えず、鳴瀬川人は知らずに思い重なって、流れは速く深かった。浅瀬と踏んで軽く仕掛けにかかったのだが、錘は付けていない。幾日か小川に囲って生かしてた囮は身が持てるかがあやしい。短い竹竿は軽くて扱いやすいが、水嵩があって三間半が軟弱のようだ。 恐る恐る当りを求めて流れの沖へと誘う。微かに糸に水がからかう響きが手に伝わる。

 穂先を静かに瀬頭方へと誘ったが、動いている様子が伝わらない。

 いきなり川下に動いている。というより流されているということか。

 でこぼこ道を歩くようだ。どきどきッと穂先に伝わる触りが、糸に繋がり竿に引かれて流されている。泳いでいるとは程遠い感触である。

 魚は遂に渚の縁に寄せられてしまった。「追わせろ、上流へ誘え、泳いでいるように動かせ」。一体そんなことが判るものか、何処にいるのか、知るものか。水勢が強すぎる。流れに沿えぬはぐれ魚か。

 このぶんでは今日は駄目なのだろう。偉い手間を掛けて囮を仕掛ける厄介が甚だ面倒くさい。それに暇つぶしが多いばかりか、今度は監視の外の、水中の操作が、恰も痒いところに手の届かない焦れったさとなる。

 浅葱の引き水は好漁の時期とは覚えたが、どうも生兵法は怪我のもとか。諦めて道具を仕舞うことにした。

 穂先をやおら持ち上げた瞬間、にわかに重く何かが掛かった。

 息つく暇もなく川下に引き浚われる。いや強引に引っ張られる。

 追い掛ける、しかし流れのほうがやたらに速い。

「勝手にせぇ」とばかり諦めたとき、囮鮎と一緒にもう一つ鮎が、波頭を叩いて跳んできた。

 私は暫くボウとした。友釣とはこんなことか、ごみにでも浚われるかと思ったのは鮎が掛かったのだ。流れに二匹の抵抗が重なるから穂先が折れそうである。乱暴な衝撃である。凡そ先輩の教えた注意も助言も念頭からさらりと消えて、友釣の漁獲の瞬間は一切がただ無である。

何が起こったのか、事の成り行きを知るでなく判断の余地すら更に無い。 「友釣は初歩だろうが、素人だろうが構いはしない。」これが友釣か予想を越えた鮎が掛かるものだ。べらぼうに大きい大魚篭には、私の腕前を越えた鮎が籠中にじっとして収まっている。その態たるや誠に神妙である。                         

 初歩の私にはこれが友釣りの実感とは思われないが、これからの釣歴に遺る獲物が捕えられていることは間違いない。此所にはまだ魚群が居るかも知れない。鮎は群をつくって生きているからだ。

 今日は水量が深いが、不断はザラ瀬の水際には、河鹿の鳴く声が聞こえてくる。生え間に残る河原砂利には、月見草の花さえ咲き競うところであった。

 奥山に初秋が迎えた雨の頻りにしてか、思いのほかの深流れであった。 初々しい私の友釣りでは心もとない。くたびれるばかりが徒に多くて、釣りの悦しみが強烈ではあるが、心ゆくまで堪能するには、あまりに呆気無い瞬く間の短編劇であった。          

 至る所に幽谷を、叩き砕かれ芋こじ磨きに研かれた、礫砂利の支川が幾重にも見え隠れして流れている。新しい珪藻、藍藻の好餌が生えている、鮎の棲むそして大事な餌場は至る所にあることが分かった。

 惜しまれる漁場だが水の引けた並水の流れを待って此所は又の機会に預けよう。

 友釣りの実に羨ましい好漁場が浮かぶ。あそこに行ってみようと決めたのが舞出であった。舞出橋を渡って西側を岸辺に沿うて下る。真竹薮本欅.楓の林を抜けると足元から本流が流れている。川縁は牛に食わせる朝草刈りで絨毯に仕上がっていて、向い側には居酒家が色も鮮やかな幟りを並べ立てて居る。国道三四十号線が往復の車を通わせていて、野次馬連も結構に楽しめる景色のあるところである。

 このごろ貰った軽自動車を駆使する。新調のカーボン製十米三百二十瓦値段が十うん万円どころである。これも新調の径三十糎あるブリキ罐に網を巻きつけた基地用に据える大型玉網も乗せている。

 図らずも、この大籠が活躍する場面を展開することになった。

 陽光が爽やかに風景を照らし、風も穏やかで出水の嵩も急いで旧に還ろうとしているようだ。浅葱の色は未だ残り、転石の姿が綺麗に川底に敷いていた。

 場所も好く短い竿に浅瀬に合わせて、三号小玉の錘仕掛けのチッキリ引きを打ちだした。時は十時頃か、釣の覚悟もチラホラの定め怪しい束の間もあらばこそ、確かな手応えが響くと、下流へ逃げる力に容赦がなかった。追い掛けるのがやっとのことで、忽ち大薮に行き止まり、如何にもならない身体を腕延びきらせて、天に任せて夢中で引き抜いた。

 獲物は大きく弧を描いて後にすっ飛んだ。弾みで外れた鮎が田の畦に落ちた。めずらしい、腹には赤味が注している。しまった。魚篭が車に乗っている。橋の袂の駐車場から大魚篭を急いで持ってきたら魚は砂まみれになっていた。落ち鮎だ、きっとまだいるはずだ。無造作に川下に打って小幅に引く。今度は覚悟の鮎かけである。三度、四度繰り返すとかかった。

 好天で掛かりが好いようだ。大魚篭には六つか七つが泳いでいる。

 それからが大変だった。囮鮎の積りはいつの間にかすっかり消えてがら掛けで夢中なのだ。どうしたものか、一度に二匹掛かってきた。それどころか、二度も引けば直ちに掛かってくるようになった。

 何のことか、落ち着く暇もない。しかけを投ずる、揚げる、魚篭にしまう。反射的に繰り返すばかりである。竿を捨てておいて、忘れた弁当を車から持ってくる。お茶にコッペパンを噛り飲む空腹退治である。

 鮎は置いた竿を揚げたものにも付いてきた。なんでも二十尾はものしてるだろう。昼ごろだろうか、何気無く視線を川底に向けて吃驚した。

正しく「突っ帰り」だ。松田発三郎さんの言うところだ。「突っ帰り」とは、この下流に堰堤が構築されてある。下り鮎がこの障害物で戻るのだ。若しかして、隣の町まで引き返すこともある。「突っ帰り」は十日も続くことがある。「それについて行け、追いかけてどこまでも」松田さんはこのように教えてくれたのだった。

 鮎は潜り石を乗り越え、邪魔を弾き、転び石を避けて続々と、鮎の群団が狂乱の体で逆登っているのであった。どれほどいるのか、四方の川は水の色までが変わって「濃紺の絨毯」が逆流さながらを呈している。

 仕掛けを鎮めればあとは好い、引き上げれば採れる。二匹は珍しくないが揚げるのが容易でない。手元の竿が、掌が滑りで持つのも覚束無い有様である。どれほど経ったか時の経つのも知らない。大魚篭は底が見えない。獲物を投ずれば一斉に飛沫を飛ばして騒いだ。選り抜いて幼い魚はもとに返した、あとで来い、今日は一杯なのだ。

 こんな機会は再びあるまい。全身に「疲れた」草臥がはしる。勇を鼓舞して釣りが続く。だが欲張りも限界である。罐の縁からとっくに超えて魚の層が網の中ほどまで競揚げてきている。縫目が裂けたらそれ迄だ。 吾にかえって辺りに眼を配れば、日は漸く翳り、後の官山はやくも夕べを迎えていた。幾たりかの影が、国道の真白いフエンスに寄りかかっている。こちらを見るやら見ないやら、大方弥次の連中に違いない。

 「確かにくたびれました」岸の淀みに漬けておいた大魚篭を持ち上げた途端に落してしまった。魚篭は身体で支えなければ堪えられなかった。 車までの野径を、竿天秤に振り掛け担ぎでやっとたどりついた。魚篭の途中を手拭で括って助手席に置くと、あとはねぐら目掛けて一目散である。

 早速小川に水を迎え入れたが、生死の別は明らかでななかった。

 活きの好いうちの素早い処理が何よりである。電話連絡で親類、縁者に届けるべし。「御川止め」の由緒ある上川鮎は滅多に魚屋でも手に入らぬ品である。私の腕のほどは、一見して明らかになるはずである。

 一夜明けると昨日の疲れもさらりと払拭してしまっていた。

 昨日の大漁が再びくるとは思わないが、若しかしてあるかも知れないと、翌日上流の宇南沢口に漁具を開いた。昨日のところから百五十米か欅楓混じりの竹薮が続いている。枝葉が岸に覆いかぶさり午後は日陰になった浅岸から、友掛けの好漁場とも言う。だが今日はチッキリでがら掛けに決まっていた。

 待ちあぐんで、そろそろ引き上げようかと、恨めしげに川を睨んでいたら掛かった。昼下がりから始まった縦曳きが休みなくつづいた。

 次の日は百米余の穴沢淵で存分の漁に満足する。翌翌日はさらに上流の槻沢口で二十疋を揚げた。更に掛け登って道尻口で一働きと気張ったが、川下に立った「ラッパ叔父さん」(軍人.消防隊の吹奏の名手)実は荻原幸助さんには休みなしに捕れている。引き抜き取り込みの動作が羨ましくて仕方がなかった。

 「突帰り」の松田発三郎さんの経験は正に実証された。

 がら掛けの大漁で、友釣りの修業はさっぱりと忘れてしまっていた。

 こんな折に、妙な噂が飛んでると嫉み半分に羨ましいそっくりの世間話を語ってくれた御仁があった。

 ことの起りは至って単純なことであった。「彼奴のところにベンツが訪れる」「アパート経営が図に当り、奴め儲けてゃがる」だから銀行の預金集めだということである。

 職に困ってなけなしの財産を売り払って転業したが、資金が不足で窮余の策から手形借入れの借金をしてしまったのであった。

 支店長代理のその車こそ、毎月返済の手形借入れの厳しい督促であったのだ。

 借金返済の期限は意外に厳しくて、返済期限が過ぎれば一日だって許すものか、必ず督促されるのである。斯くして毎月の鬼の取立ては、容赦もなく私の後を追い掛けて、地獄の果でも探し出すのであった。

 誰にこと別け言われもできず、一方的に弁解がましいなどと、世間は許さなかった。

 しかし、挙家離村の革命時代に、アパート経営までは別として、土地購入は知人から友人、親類の内からまで、随分と本気で打診や相談に、訪れた方々もあった。お陰で「釜返し」が見直されたようで、機嫌良くしたものである。

 中でも吃驚させられたのは、職場で机を並べた職員が、神職家に育ち女性の身で、県央都市で不動産業に進出していたことである。

 正月三日の松の内に、御夫婦御両親お揃いで「貴方のおかげです」と、一献を賜ったのは驚かされてしまった。

 茶飲みの一時「財産の活用せよ、家が足りない、だから不動産業だ」

 負惜しみの口から出まかせ言ったかも知れない。

 知人の遠野郷の佐々木さんもアパート経営を営む。 

 

 鮎の成長は上流から始まる。月が満ちれば同胞を呼び、相擁して産褥(卵うみ)に就こうとする。友釣りが付き場下りになると、漸次漁場はこれに随うという。

 紅葉楓の色初めて、愁雨愈増し繁くして、錆びた姿の群遊が日毎下流へ慕い往く。秋雨の水を溜めて夏涸れを、嵩高に勢いはやめて流れている。後追い掛けて川下の島部に向かった。

 島部は高田平野の咽喉首に位置し、北の五葉山から流れくだる気仙川に沿うように、西方から太平山に湧きでて斜めに流れ来る矢作川が別れ口だから此の辺りを「別れ」と呼ばれている。

 内水面規制の組合が鮎の産卵場と定める「つき場」は、この四百米の位置に、鮎が天然の最高適地として孵化する別れ口で重なる。

 三日ばかり前の雨は矢作川が多かったらしい。水嵩が意外に増していて、整地して砂利を掬い揚げたところが、川床とかわって流れを造っている。

 禁止区域の本流が沖合で、足元の川こそもとはと言えば、丘の場所だという。水が退ければ陸地になるという。

 「友釣りがどうでしょう」となりの人に聞いてみた。

 「もう季節が過ぎている、珪藻(かな…水苔)食わねば、追わないから」ここへ集まる鮎は産卵のためである。食うとすれば浮遊物だろうというのだった。

 土堤に並ぶ人々は、群衆を為している。足の踏み場も無いくらい竿や大魚篭.合羽など投げ出して、四方の話に興じているらしい。

 流れの中に白銀の一閃ちらッと翻った疾風の光を見た。

 鮎の産卵が始まっているのだろうか。

 「今年の付きはどうですか」手持ち不沙汰で、出任せの話題を口にする。

 「出水の前は一匹か二匹でナ、これからだろう、本番は」

 初めて来た場所である。肩を接しての林立の中で、験して見たい。

 私は浅葱色の澄んできた流れに見た。速い、白閃のひらめくのを。

 私は「居る、鮎だ」確信を持って立ちあがった。

 三間半の竿は「師勘龍」作の竹細工である。道糸太めに一.五号を張り、針を錨型七号二組を仕掛ける。流れがあるゆえ、なお隣間の狭さに備えて、錘を重く五号とした。

 振りは吾の幅に占め、反動の余地は二尺の間と戒めて、若し誤れば他人を釣る。ゆっくりとチッキリ曳きの慎重な操作で始まる。

 数回、ほんの足元で掛かる。逃げの暴れが激しい。間違い無くあの「川止め」上流育ちの筋肉質の締まった魚体は間違い無い。

 辺り構わぬ動きは禁断である。腕一杯延ばし、身体の限りを斜めにした、一歩も踏み出せない抜きは、掛かった瞬間のほか好機はない。立ち直りを許さば、身を裂いても逃げを打つ。

 大胆に、躊躇しない、呼吸の咄嗟(とっさ)に拍子で抜き取る。

 寸刻、呼吸をあやまてば、忽ちプッツンでおしまいとなる。

 三つ、四つ捕ったら総立ちとなった。

 列を並べて大小の竿が先を争い、がら掛けの全員総開始である。

 蕎麦叩き、麦打ちの力み方と相成った。

 トラブルが起こる、前の竿に絡んだり、後の人を引っ掻いたりだ。

 興奮状態は時間の過ぎると一緒に次第に収まってきた。進退の釣人見えるかと思えば、出処の漁師また現れて、釣り方の主流を為しているがら掛けが続いて、秋の季節が次第に降りてきている。

 やがて小雪の舞い始めるまで、生涯掛けて子孫繁栄に懸けて、潔く散る日の間近さを知るのである。

 「腹が脹れた、下り鮎十七だァ」丁寧に魚篭を石で抑えて、もと通 流れに漬けると、でかい声で辺りまで聞かせている。

 「おめぇさんが、何処だっけ」

「はァ、横田でがんす」

 「うまいもんだなァ」

 

 松田発三郎先輩の教えがそれである。私は先輩の技を踏襲したに他ならないのである。ここでも、「突っ返り」出水で下った魚が再び元の川瀬に還る習性を察したからに他ならない。

第5章 友 釣 り 遍 歴

           

 鮎の遊漁は初夏に始まり、初冬の季節まで続く。

 だが鮎の豊凶は春先の海から淡水に入り、遡上する観察を以ってはじまる。鮎の孵化は河口より三粁のところの天然の着き場に産卵されて、大凡四十日が経つと孵化する。稚魚はこのころは稚苗と呼ばれている。 幼い苗とは稲の苗とおなじ言葉の人に大切な愛しさを込めた響きを感じさせる。先人のぬくもる思い遣りの、心に深く呼ばれながら、只管成育するのを大切にしているのを知るのである。

 稚苗の大群は冬の酣と同じくして大海に入る。

 ある年の四月始め頃だった。私は此の越冬を海水に過ごしてから、淡水激流の生活闘争に向けて遡上する鮎の大従列を、遥々気仙川上流八粁舞出堰堤の下菖蒲ガ淵の辺にこれ見たのであった。

 新緑が萌えいでぬ、実のひとつだにない、山吹の花が咲き初めるころが「うぐい」「はや」の季節である。私ははや釣りを楽しもうとしていた。三本継ぎの竹竿に板鉛を錘に蚯蚓(みみず)の餌でぼんやりと食うのを待っていた。

 漁が無いままふと落した足もとの渚を伝って、無数の稚魚を不思議に思って見つめた。三糎から五糎がほどの小さい魚が列をつくって渚を遡っている姿に見入った。

 魚は川下に向いている足先のなぐらに、数匹並んでしばし歩みをとどめたというところか。尾鰭が僅かに揺れながら休んでいた。

 なにげなく視線を後に移すと、なんと切れ目ない解(ほつれ)れた黒い糸の流れと紛う列が、見渡す限り続いていた。時に二列だったり固まったりする糸の流れは、ひと度足を動かせば、忽ち切れて裂かれて糸は消えた。

 だが待つまでもなく遡る糸は、再び何事も無かったように、連なったまま登り続ける。水中に眼を据えてよくよく見れば、紛れもなくそれは稚鮎だったのである。

 栗の木峠の手前で、国道と、東側堤防の合わせたところに、同級生の畠山勇一君が住んでいた。私がこの新発見を知らせたのであったが、彼は聞こえた風も無く、流行の健康機の説明を始めた。彼は病院の事務長だから仕方が無い。どこが悪いのか明らかでないが、これを胴体に巻きつけて、座禅を組んで呪文を誦える。

 何かおどろおどろしい迷宮に誘われる怖さに思わず同級生の顔を見なおした。彼は腹巻の健康機を仕舞うと、おもむろに紐を締めなおし漸く川の話に入った。

 図らずも去年の私の落ち鮎大漁が彼の口から出たのである。

 横田流れの残る半分を潤す水門が、此処に設けられる舞出堰堤で本流を阻まれて水を湛えている。栗の木峠の川は、さながら湖に代わって鰻蟹類はもとより鮭鱒よりも鮎の遊漁の宝庫と謳われていた。

 彼は川舟の鑑札を持ち、すぐ後に舫杭(もやいぐい)を打ち込んだ舟着場を懸けている。舟を扱ぐ、投網を用い、竿釣り竿掛けなんでも宜しい、もとより漁師の鮮魚は直売とのことで、趣味や娯楽の釣りとはまったく界を異ににしていた。

 早朝、人に先んじて要所を鮎掛けをする。暗いほど魚は動きが鈍い。

夏の間洪水が無いかぎり、鮎の好んで暮らす場所が決まっている。投網、友釣跡はいないものと知れ。友釣は鮎の夏休みを避けろ、高温は瀞、晴天は荒瀬や、ざら瀬が好い。友釣はなんといっても自分で工夫しろ、混んだ手の捌き、腕の扱い、勘の磨きである。

 「昼寝の時間だから、後は終りにする」彼の売り先は花巻盛岡が取引先だと言うていた。彼の漁場は舞出堰堤から上流で、田の上橋から上流に行ったことが無いと話していた。

 彼の経験から出てくる鮎談義は、同じ流れの清流で捕る話に違いはないのだが、漁業家の語りは流石に筋金が通っている。素人の哀しさで、いま一歩素直な教えが欲しかったが、もどかしさを残して別れた。

 少しずつ釣の気仙川の郷だけに、釣の名士は到る所に在った。菅野伊勢蔵さんもこの一人である。「いつか一緒に川で釣ってみよう」約束されていた。菅野さんと遇うにはまだ歩みが足りない。人並みに近い釣りの腕が定まったなら、その時にゆっくり教えを請うてみよう。

 私は手製の仕掛けを工夫する傍らで、逃げられても惜しく小物の囮を括りつけたりして、初歩の独習いを暇や合間に試していた。

 金成水田の堰堤は後北家の辺りを登り、また下りして水害の度々起こって、堰堤は忽ち流失されて建設と壊滅は雨天の都度繰り返されていた。 自然の流れは緩やかな蛇行状に河川敷をうねるが、河川改修の画一制は直流に走らせる。激しい流速に耐えられず、洪水の度びに修復.改修が繰りかえされる。川幅が二百米以上もあろうか、幾つかの別れた小川の漁場をさがして、中ほどの支流選んで囮鮎をチッキリ引きで採ることにする。

 以前には囮鮎を常に捕獲しおき、いざ鎌倉に打って出るとき鮎箱で運んだ囮で釣り開始との方法に拠ったが、今日は現地で囮を用意する。

 巷の師は「釣師は種鮎を捕れなかったら辞めてしまえ」と伝えている。 釣りあげて即囮に用いるのが、一番元気に泳がせ追われるからである。 囮はこの辺りからは小振りの優形の鮎が掛かる。河鹿がすむせせらぎはチッキリですぐ掛かった。少しは慣れてきて手応えに遇っても驚かない。一足股を開き、両腕を掲げて下流に逃げる力を利用して瀬から抜き、反ってくるところを後に交わし、前に戻るところを玉網に納める。

 潜り石が所々にあって、時に適度の休み石も置いてある。

 僅かばかりの瀬落ちもあれば、湛えたような澱もあり、邪魔が入らぬらしくて、小柄の体型が無数に掛かる。囮捕りだったのが午前中ことごとくがら掛けでおわり、腰の舟型魚篭にはかなりの魚が暴れている。

 天気晴朗なるに加えて、辺りに人影がなく、思う存分魚労に耽溺し、空腹の至るもその暇無し、よって河中に立った態(なり)で、片手に握り飯を青葉にのせて、海苔の香と併せて爽やかな風に空腹を存分に満たす。

 

時は一九六三年の盛夏の頃、巷の世界に誇る東海道新幹線が轟音あげて驀進し、やがて世界オリンピック開催が迫っていてた。戦後復旧はいまや世界経済の一角に進出、互角の生産を競い、先進国を自認する貿易に脅威を与える。日本国経済は世界第三位の飛躍を遂げていた。

 

 午後に時は移っても、漁はあった。

 午後二時半で夏の日はまだ高いが、釣りの満足は十分である。

 何でもない小川に浅瀬を頼りに、集団の鮎が住んでいる釣場が到る所に隠れていることを覚ることができた。

 鮎は精々五カ月か六カ月で成長を充たし成魚となる。僅か五糎足らずの稚苗の生命が、清冽峡谷の珪藻を食して、二十倍以上の成長を果たすという。水と混ぜた日食の珪藻は二十瓦を蒐めて骨肉に昇華すると伝えられる。この素晴らしい驚異的生命力を醸し出す基は何であろうか。万物創造の多次元界の霊力か、または万世(よろず)の神の璽(みしるし)か、人々はあの、異様な鮎の膽(きも…腸)の苦渋に「うるい」と名付けて、好んで薬餌に供し、貴重な夏負けの妙薬と重宝する清滝川の主の姿である。

 姑が嫁が初産に安産を祈って、「せめて二匹で好い、譲ってくれませんか」、世に鬼の姑の所以(いわれ)が多聞されるなか、夫が蝦夷の奥地に流漕で鉄砲水で亡くなってしまった。

 日手間取りで暮らす寡婦の身が、私に乞うた経緯もあった。古来より鮎は悪阻の良薬にして、「うるか」が御産の妙薬であると謂う。

 鮎は二匹、たったそれだけを、国道沿いの崖縁に下りてきての願いだった。そうだ、狎れないうちに配ろう。名人だ、などと言う人もいないが、受け取ってもらえればそれで好い。有頂天の独り好がりも漁師の中の蛙大海を知らずの類である。私は鮎の味を知らない。食べるのが嫌いだからである。鼻を突く生臭い臭いが嫌いである。

 捕るだけの楽しみで沢山に思うている。いや、釣りに浸れる一刻の方が、無常の楽しみなのかもしれない。

 駆け出しの魚釣は先ず釣場がどこかを探さなければならない。

 漁師が先人で造った径を頼りに、淵瀬長瀞を探し、岩陰ザラ場と歩いたが、多くは此所が漁場の適所とは思い当たる節が無く、竿を振り仕掛けを持てあそべば足りるとせるところに、大漁を挙げ、流れの小川に時ならぬ収穫に喜ぶこともあって、季節には風雪には、闇夜は何処ぞと工夫を回らせねば、漁場は好みの淵や置き石には劣ることも屡々だったり此の上は天候を見はかり、風水に聞いてあとは己の判断に頼るしか無いと知る。

 天気は季節に相応しい晴朗を思わせている。口開けてから二旬を過ぎている。優形の下川鮎ではあるが囮に使える。

 恥を忍んで、人は笑わば嗤え(わらえ)構うものか、あそこでやって見よう。銭棚淵のすぐ上手に淵があり、八十米上流に廻り淵が並んである。国道三百四十号線が此の淵を廻って上流へ北西に続いている。

 廻り淵の淵頭に国道からおりて「百釜橋…どのかま橋」が架かっていて、橋を渡れば西川岸にあたり、橋の上下にかけて釣場が広がる。

 か弱い囮が荒瀬では本流の勢いではひとたまりもなく流されよう。

 潜り石のあたり、堰止石の落ちを探す。浅瀬のごろ太石を岸から誘うなど追いを今かと待つのだが、傷つき鮎一匹と、投網の後だろうか、痩鮎二尾で不味い昼時を過ごしていた。

 ここは町の境界が近いところだ。昼休みのラジオ体操が川筋いっぱいに谺(こだま)してくる。

 太陽はじりじりと半袖の腕を焼いて、陸に履いている長靴が蒸れてきた。百釜橋から丁寧に廻り淵に下りる。首を回らせば銭棚淵の同じ岸から淵のほとりに竿かざして動かない。向い側の松樹の下にまた一人立ち尽くす。夏涸れの水が音を忍ばせて、流れに魚の食も居眠りか漁師の影も動かない。

 

 何か後ろでゴボと物の水に落した音がする。

 首振り向けて後を見ると、幼児が川に転んでいる、すぐ起き上がって立った。「よしよし、流石、男の子だ」思いを元の竿に移した途端。 またも「がばっ」と異様な音がする、今度こそ子供だ。

 僅か数十歩のところ、ごろ太石の陰に沈んでしまった。

 竿を据え置くなり足踏み出したが浚われた。急流の汀(みぎわ)と謂えどもゴロ石は滑る。「危ない」着たまま靴を履いている。

 若い夫婦が鬼胡桃の木陰でシートの上で昼時のようだった。

 「おーい、子供が溺れてるよ」怒気を発した。慌てたからである。

 「あら、そうかしら」母親が冷やかだった。

 私は竿を拾って戻った。三度目、振り返ったときは、お母さんが抱いた全身から雫が垂っていた。

 父親が凄まじい勢いで喚きながら私に襲いかかってきた。

 何を言っているのか意味を為さない。子供がぐったりしている。

 私は慌てた、特殊部隊のときの訓練が閃いた。

 「お母さん、両足を持つんだ」「もさもさすんな、」もどかしい、何がといって、何だかわからない。

 「こうやって、振るんだ。」お母さんが引きつった顔で一.二度動かしたが投げる風で河原に落してしまった。瞬間、大きな嚏(くしゃみ)をすると、がが…と水を吐きだした。

 「大丈夫だ、うつぶせにしろ、背中を撫ぜるんだ。」

 そんなことが役立つかどうかは知らない。お父さんが漸く云うとおりにした。子供がまたも「げげ…」と吐いた。続いて空吐きと咳で噎せかえっていたが、叫ぶような大声で元気に泣きだした。

 「先程はどうも」頭を下げたが私はまだ余憤が収まらなかった。

 「見ろ、水際でも大人の瀬が届かないところなんだ。溺れた人は声が出せないんだから。」お母さんが何か言うたが聞こえなかった。

 私は竿を拾うと囮を誘い始めた。

 小学生の頃、出水の一本橋から転落したときを思いだした。川の中ほどで二年生がぽろりと落ちて流れた。「川ン流れだァ」先輩が後も見ないで下流へ一目散に走る。私も後から続いた。流れを横切って近寄るには大きく下手に廻らないと間にあわない。先輩が追いついて「こいっ、なにしてる、早く引っ張れ」

 幸い水は飲んでいなかった。「四十秒で死ぬ」集まった人たちはこう話していた。

 激流や洪水に翻弄されながら押し流された、上川のゴロ太石や玉石の累積のほか、川藻が生えて余計に滑りやすい。転んだら最後起きたりまた転んだり、水を啜り噎せ返ったら息が止まる。

 今度こそ「川流れ」は四十秒以内に、息を付かせなければいけないと確信が置けたのだった。

一千九百六十六年の初夏の頃であった。大船渡末崎の従兄弟がぶらりと尋ねてきた。

 「鮎の友釣りを教えろ」突然の申入れであった。

 濫りに師となる勿れ、言わずとも身に戒めるところだが、入り口さえ定かでない駆け出しの素人であった。生涯にたった一度の「先生」ともて囃される好機会だ。

  構うものか、それにしても鱗一つでも、釣らせてやりたいものだ。

 短い竹竿を選んだ。四方(よも…まわり)の触りを避けるためだ。

 魚篭は大きいものに、囮を付替易いから、場所はすぐ其処の家の前、国道三百四十号線を一股ぎすれば、国道犬走りの根止めの蛇籠が押し流された、跡に入れ替わった玉石混りの砂礫が、絶好の珪藻藍藻の繁殖に適していた。

 鮎はいる。がら掛けで囮をすぐ捕まえた。手製独自の仕掛けに装備した。「さあいいか、囮の掴みかた、左手親指で右目を軽く塞ぐ、残った指で鰓蓋を押さえながら胴中を掴む。

 右手で開いた鼻輪を手前から向こうえ、押し込むように入れる。

 鼻輪を忘れず閉めて水に放す。その後必ず二.三分休ませて恐さを和らげてやる。

 「夜に網が入らない、友釣りがしてない、気温が高い」好条件が揃っている。夏休み中の鮎だが追い掛る見通しだ。

 尻の錨針は五尾釣ったら取り替える。此所は川幅が狭いから決して川に入るな、種鮎が川底に引っ掛ったら切って捨てること。口説く。

 「今日は忙しいからな、また後から来てみるよ。」

 野菜の生産の研修会が、質問から、意見交換まで二時間たっぷり有意義に終わった。ネクタイを締めたまんまに、皮靴履いた形(なり)で早速駈けつけてみた。従兄弟の正夫君は西側に越えていて、こちら国道を向いてぬっくと立っていた。

 「どうだった、駄目かな」

 「いいや、大漁だったよ叔父さん」

 「ほう、なんぼ釣れた」

 「十二本釣れたょ」驚いた。午後に来てから初めての友掛けである。

しかも大漁ときては、度肝を抜かれた。小物の種鮎である。これに太物の鼻環と糸針は、荷が重すぎる。囮はそれほどの稚鮎であった。柔竿の不適と仕掛けの粗末とあわせて、囮操作の難しさに、今頃は種鮎をヒラヒラと波間に浮かせて泣いてるじゃろうと、多寡を括(くくる…あなどる)って駈け付けてみれば、真に以って大違いだった。

 「さあ、やめようか」悠々と釣道具を仕舞って、独り言を置いて川を渡ってくる。

 提げた魚篭の中には見事に揃った獲物が整然と並んでいる。これこそ正に天然の鮎である。

 大船渡市末崎の従兄弟が商売は船具漁具の取引が主だったが、太平洋がまさかの不漁で、実は既に漁場に魚のいない海洋と知る頃であった。

 店は家庭用品にうつり、店を大きく改装して淡水用漁具も並べるとともに、自らも川釣り漁師の道に励んできた。

 日進月歩の勢いで天性を発揮し、忽ち気仙川を征服すると、友人等と相擁して東北から北関東へと鵬翼(ほうよく…おおとり)を広げて遠方の河川にまで挑戦し、ところの名人に師事しては最新の釣具(ちょうぐ)や釣竿をならべて、持つなり、また売ったり、友釣りの技倆も飛躍的に伸ばしてゆくのだった。

 彼の技術は趣味の範囲、娯楽の域を遥かに越えて素人離れがして、尚留まる処を知らぬ有様であった。

 水中にカメラを据えて撮影する。これを室内で放映しながらサークル同志で研究とくる。喧々諤々(けんけんがくがく…かれこれと、やかましい)法螺も吹きつくせば、これをもって営利会社に注文つける。新規開発漁具の開発に一臂の助力を貸さんとするのだ。

 眼を輝かし口を尖らせて抱負を語り、弁慶の叔父さんを掴えて、世間釣具(ちょうぐ)胸算用で煙に巻いている。

 雄物川、阿武隈川とか、了いには熊野川から四万十川の清流を、気仙川と比肩させて法螺を吹いている。奴さん家族に内緒でアラスカの鮭釣まで、気違いの沙汰を目論んでいると思ったのだが、どうやら私を威かしたようだ。真偽の程は地元の仲間や、東和町の名人に聞けば精しいだろう。

 大変な手解きをしたものだが、何これしきのこと、自分の性から出た方がでかいのだ。

 八十二才の母親を夫婦二人で苦労重ねた後葬ると、やれ一息ついたと思う間もなく、数年ならずに、夜間の路上駐車のトラックに追突して亡くなった。

 儚い。